So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

ファンタジー世界の居住性 衣類篇 [ファンタジー世界考察]

 本来なら「ファンタジー世界の衣類」とか「ファンタジー世界の布地」という記事を書きたいところなのだが、調査しようと思うとなかなか面倒なので今日は概論的な、いい加減な感想を書くつもりしかないのでこのタイトルにした。


 ファンタジー世界になぞ暮らしたくないシリーズの衣料品篇である。

 ファンタジー世界というのは食事もまずければトイレも汚いしガラス窓もないと書いたが、衣類事情もひどいものであった。

 まず当たり前だが合成繊維が存在しない。ナイロン、ポリエステル、ポリウレタン。石油化学も存在しないのに存在するわけがない。男性諸君にとって女性の黒タイツやオーバーニーソックスは性的にとても好ましいものでファンタジー世界でも皆想像逞しくしているが、ナイロン生地は存在しないのである。まあ、といっても、啓蒙時代の王侯はピタピタのタイツを履いていたのでそこはなんとかなるかもしれない。しかし水着はどうあっても難しい。現代人の想像では水着はナイロン一択である。頑張ってファンタジー世界でも水着を着せようと苦心惨憺……などせずファンタジー世界にバンバン水着を登場させているが(なにせ水着ガチャは金が集まる)、そんなもの存在しようがない。そもそも中世以前の世界で水遊びするなら全裸が基本である。それが当然の常識なのである。
 話は大幅にそれたが、当然ながらポリエステルのサラサラ感などファンタジー世界に存在しないのである。

 では話を天然繊維に限ったとしよう。

 まず綿、木綿が中世ヨーロッパには存在しなかった。今これを見ている諸君も木綿の下着なり肌着なり身にまとっている可能性は高かろう。だが中世ヨーロッパに木綿は存在しない。木綿すら存在しない。
 これは、一つには単純に原産地と栽培地の問題である。綿の原産はアメリカ大陸とインド亜大陸であった。中世ヨーロッパの住民は綿の存在自体知らなかった。インドから伝聞された綿の「伝説」は大幅に脚色されたものだった。即ち、綿生地がウールと似ていたため、ヨーロッパ人たちは「植物」の「ウール」、「木に生える羊」だと思ったのである。これが伝説のスキタイの羊、韃靼の羊、リコポディウム、あるいはプランタ・タルタリカ・バロメッツことバロメッツである。
 想像がつくだろうか。木綿の下着や肌着がないのである。といっても想像しにくいかもしれないが。ヨーロッパ人は基本的にウールの服しか持っていなかった。自らの裸体に、なんでもいいからウールの衣類を下着なしで直に身にまとうことを想像するといい。そう、そもそも下着や肌着も存在しなかった。Skyrimで自キャラを全裸にすると下着みたいなのをまとっているが、あれは全裸にさせないための法的配慮である。ともかく、下着なしでウールの衣類を裸の上に身にまとうことを想像することである。ファンタジー世界が実に居心地悪いか想像できる。

 といっても、木綿の問題はなんとかなるかもしれない。というのは、木綿の原産地やファンタジー世界の気候を適当に調整すればそのファンタジー世界で木綿が生産されていてもおかしくはない。田中芳樹がジャガイモを導入した手間より手っ取り早いかもしれない。
 あるいは、それこそバロメッツが伝承どおり存在してもいいのである。そのほうがファンタジー世界にふさわしくも思える。いや、だがファンタジー世界とはいえ「驚異」がそれほど日常化してはいささか興ざめだろうか。

 実のところこの件の解決は比較的容易にも思える。なんなら、木綿や絹を超えた万能繊維をオリジナルでこさえればすべて解決する。名前とかそういうのは適当につけておけばいい。植物繊維でも動物繊維でもなんでもかまわない。
 下着だってそうである。別に下着の有無がどれだけ文化的差異に影響を及ぼすか。中世ヨーロッパに下着が普及していたとしても封建制度は崩壊しないかもしれない。

 トイレにしてもそういう面はあって、たとえばモヘンジョダロにだって下水はあったのだから、中世ヨーロッパファンタジー世界の都市に下水が普及していてもいいのである。
 ただ、万能繊維や下水の普及した世界ではペストのような伝染病は減るかもしれない。そうなると、『銃・病原菌・鉄』などという書名が存在するくらいだからなにも無視はできないかもしれないが。

 ただやはりそれにも限界はあって、トイレはよくてもトイレットペーパーは存在させるのがいささか面倒である。板ガラスもである。砂糖なら木綿と同じくごまかしはきくかもしれない。だが霜降り牛肉などはほぼほぼ存在しない。まあヨーロッパ人は赤身の方が好きだけれど。

 だいたい、そんな万能繊維のような都合のいいものがほしいかどうかというのもある。なんでも快適なファンタジー世界というのも、いささか味気ないようにも思えるのだ。


 ファンタジー世界の居住性というのは、あるいは工夫すればなんとでもなるものかもしれない。だが世界の整合性は常に考える必要はあるだろうし、そもそもそんなファンタジー世界が望ましいのかどうか、そこまで考える必要はあるかもしれない。
nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:ファッション

ファンタジー世界に淫する ユートピアへの道程 [ファンタジー世界考察]

 実のところ前も書いた内容に思えるのだが、自分のファンタジー世界への固執について書こうと思う。いや、あるいは繰り返し書いているようにも思う。

 休みをたくさん挟んではいるが、基本的にこのブログを更新すると精神的に満たされる。
 それはどうあってもファンタジー世界を愛しているからである。

 何故ファンタジー世界が好きになったのか、起源はいまいちわからない。小学校の頃にドラクエであるとかファイナルファンタジーを見て気に入ったは確かで、自作のファンタジー世界の地図を描くのが大好きだった。今ならRPGツクールで再現できるようなものだろう。ただ好きなのは地図だけであったように思える。ストーリーなどに思いを馳せなかった。どうやら当時の私の印象に残ったのは地図ばかりらしかった。地図、というよりも世界であろうか。世界地図である。
 そもそも私はストーリーより事物そのものを愛していた。保育園の頃から絵本より図鑑が好きだった。絵本もそこそこ読んだが、図鑑を愛していた。生物、天体、岩石など。敢えていうなら博物学に魅せられていた。大プリニウスのような博物学である。もちろん当時の私は大プリニウスのことなど知らなかったが。

 中学校の頃までに想像力の基盤が作られつつあったが、その時点までにゲームアニメの世界がベースとなっていたように思える。そもそも白人の顔立ちなど知らないのである。ファンタジー世界に登場する人物の顔はアニメ的なもの、つまり二次元絵であった。繰り返すが白人の顔立ちなどは想像できるものではなかったのである。実のところ日本のファンタジーはこれが根深いようである。とある少女小説の作家や挿絵画家も似たようなことを述べていたと記憶している。だから日本のファンタジーは二次元絵、アニメやゲームやラノベと親和性が高いのだと思う。

 さて、私は人生の初期から精神が不安定であった。人格形成に失敗している。まあそれはどうでもよろしい。とにかく高校の頃は現実逃避しか考えていなかった。そこで用意されていたのがファンタジー世界であった。このことは以前も書いたが。
 だから現実から逃避するために堅固なファンタジー世界が欲しかった。

 この起源は自分ではっきりしているわけでもない。
 ただ今日はそこを措いておこう。

 私が欲しかったのは自分が逃避するための確実な世界であった。一つの亡命先である。現実がどれだけ空疎で餓えて渇いたものであっても、ファンタジー世界がそこに確実に存在するのなら私はそこに想像の翼を広げることができた。いや、実存の翼とでもいうべきだろうか。

 だから、私のファンタジー世界は確実に存在している必要があった。その世界として完結していることが必要だった。物語のために従属しているものではなかった。物語を基準として整合性を疎かにするわけにはいかなかった。いや、そもそも物語などない。私が欲しかったのはそれだけで自律して回る一つの、「もう一つの」世界であった。世界は完璧でなければならなかった。世界に瑕疵があってはならなかった。瑕疵があればそこから世界が綻んでしまう。私はその「もう一つの」世界に移住しなければならない。だから自分の住む世界が綻んでは困るのである。

 それで私はその世界の確実性を補強しなければならなかった。前も書いたように、ファンタジー世界の物理法則は魔術でも神の奇跡でも頼れば整合させることができる。ちなみに数学だけは魔術でも神の奇跡でも手出しはできないが。閑話休題。しかしファンタジー世界に住んでいるのが人間、あるいは人間と相互理解可能な社会的生命体である以上、彼ら同士の関係は容易に整合させられるものではない。ある程度介入可能であったとしても、そもそも人間のパーソナリティと異なる社会的存在と生きていきたいだろうか。つまり、社会の問題である。ファンタジー世界の社会を緻密に設計する必要があった。

 というわけで私はファンタジー世界のリアリティ、リアリズム、それも社会的側面に注目することになった。いや、リアリティリアリズム気違いとなった。


 と、一応まとまった気がするので今日はここまでにしておく。まとまりきっていない気もするが。
nice!(0)  コメント(3) 
共通テーマ:健康

ファンタジー世界の傷痕 [ファンタジー世界考察]

 ファンタジー世界は色々な意味で男女同権が図られているので女戦士とか女騎士とかが割りと普遍的である。海外のファンタジーではレスラーみたいな筋肉ムキムキのワイルドな感じの女戦士が標準的である。翻って本邦の女戦士は少女然としたほっそりしたものが好まれる。これについては斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』という大変興味深い本を書いているのだが、いかんせん肝心の核心部分が、ソーカル事件で知られる無駄に難解なラカンの理論で説明されているためさっぱりよくわからない。
 かくいう私も戦闘少女は大好きだが、その起源を一応はリボンの騎士に比定してはいるものの、精神分析学も存在自体崩壊したことだし、起源については謎となってしまった。

 ところで、女戦士は白兵戦を行う。いや、女魔術師も女聖職者も基本的に冒険者なる職業である以上白兵戦を行うことが前提である。
 白兵戦を演じれば当然怪我を負う。鈍器で殴られ、剣や斧の刃に斬られ、魔法で焼かれる。それは男の冒険者でも女の冒険者でも変わらない。
 つまり女だろうと男だろうと冒険者は傷つく可能性が高い。いや傷を負って当然である。

 戦国武将の伝記などを漁ると、彼らは生傷絶えず傷だらけだったことが窺える。藤堂高虎や北条氏康など満身創痍、傷跡だらけであったという。

 だとすれば、当然ながら、ファンタジー世界の女戦士、女騎士、日本のファンタジーではメインヒロインの座をしばしば担う可憐な彼女らも、生傷絶えない傷跡だらけの身体をしているはずである。戦士に限らず、後衛の魔術師だの聖職者だって、量はともかく傷跡はあるだろう。ゴルゴ13のデューク東郷などは脱ぐと傷だらけだが、彼女らもデューク東郷のような感じになるはずである。

 しかしまあ、日本のファンタジーワールドに住まう彼女らはお肌ツルツルである。なにせヒロインとしてセクシャルな視線に堪えなければならない。私のように傷跡に萌える人間もいるだろうが、多くの男はツルツルお肌を好むようである。
 というわけで彼女らは傷一つないボディを誇っている。
 たまに傷跡を誇る女性冒険者もいるようだが、大抵はベテランさの象徴や、荒んだ感じを出すため、あるいは「特別な戦いで負った傷」だけである。例を出すなら進撃の巨人の、ミカサの頬の傷などである。あの傷が描かれているのはエレンにまつわる戦闘のメモリアルな理由からである。

 さて、ファンタジー世界でそれを「再現」するという無駄な試みを行おう。このブログはそういう場所である。

 簡単な手段は聖職者の治癒魔法である。いや別に治癒魔法を聖職者の専売特許にしてやる所以もない気はするのだが。
 治癒魔法を使えば傷痕も残らない。女戦士もお肌ツルツル。ハイ論破。

 としてもいいのだが、しかしファンタジー世界の魔法でもなんでもそこまで便利なわけでもない。結局はそこに何を望まれるかである。ファンタジー世界の女性冒険者は物語のヒロインたるを望まれているので、お肌ツルツルなわけである。ご都合主義である。たまに物語的に「見せ場」があったらちょっと傷痕を残してみる。「女の子なのにお肌に傷痕残ってしまって」みたいなセリフを添えれば物語は成立する。

 なので、ファンタジー世界がちゃんと実在するなら、そこの女性冒険者、ヒロインたちはその肌に傷痕刻んだ歴戦の勇者たちであるべきなのである。


 しかしこういった、リアリティとキャラクター性を対立させていくと、ファンタジーがどんどん破綻の危機に襲われる。
 遺憾ながら私も現代に生きるオタク文化、キャラクター性と二次元的表現に囚われた哀れな存在である。それはそこそこ萌えを求めることになる。
 結局は程度の問題である。


 傷痕の他にも、筋肉なども問題になるであろう。前述の通り海外ファンタジーの女性などは筋肉ムキムキに表現されがちだが、ジャパンのファンタジーの女性はやたらほっそりしている。そして脱いでも(何故脱ぐかはさておき)ツルツルである。多くの場合腹筋すら割れていない。
 海外ファンタジーの女性をレスラー呼ばわりしたが、女子プロレスというのはあくまで限定的な趣味であるようで、私もその趣味はないし、ジャパンのファンタジーに出てくる女性はスマートである。
 しかし傷痕は魔法でごまかせても筋肉はあまりごまかせない。アイズ・ヴァレンシュタインもカタリナさんもミカサも脱いだら筋肉ムキムキで満身創痍傷痕だらけなはずなのだ。
 まあ、女性は筋肉がつくといってもある程度皮下脂肪も残るからボディビルダーみたいな筋肉モリモリにはそこまでならないのだが。


 個人的には筋肉質な女の子にしても傷痕のある女の子にしても萌えの対象だが、一般的に男性はスリムでお肌ツルツルな女の子を好む。傷痕のある女の子などはどちらかというと特殊性癖にカテゴライズされかねない。百合的妄想で女の子冒険者パーティーの後衛女の子が前衛女の子の傷痕を舐めながら「これはあの時私を庇ってくれたときの傷……」とかいうは好きだが、とても一般的ではないように思える。
 それに私にしても、実際のところ、ファンタジーであっても想像の基盤が二次元から離れられない。というのは、私は白人女性に欲情しないのである。審美的価値は見いだせるのだが、性的価値を見いだせない。そんなわけであるから程度問題と自分の中で片付けざるをえない。


 たとえ二次元の絵であっても、私は筋肉の表現を重要視している。別に筋肉ムキムキを求めているとか腹筋は常に割れていなければならないとかいうわけではない。そう、それは二次元の世界では明らかに特殊性癖に分類される。
 しかし、筋肉は絵画的意味で重要だろう。特に、男性諸君が好きな太ももなどはその典型である。あれは大腿部の筋肉を賞翫するのであって、肌色の円筒形を賞翫するのではない。フィギュアに着目するとよくわかる。壽屋のフィギュアなどは太ももにせよ他のパーツにせよどこまでもただの円筒形であり、実に物足りない。それに比べてマックスファクトリーやアルターの見るべきフィギュアの太ももには肉がある。
 二次元のいわゆる萌え絵を見て、多くは顔などの表現に目を奪われがちだが、私などは着目すべきは身体の造形であると思っている。腹筋は別に割れていなくともいいが、腹筋の存在を意識した表現などを見ると思わず見てしまう。脚の表情などは特にそうであろう。太もも、膕、ふくらはぎ。筋肉への配慮なしにはいいものになりえないのである。
 現実的には、それは、筋肉の発達していない女の子もいる。特にお嬢様学校の生徒のふくらはぎなどは視覚的差異があることなどは、実在制服界隈だと話題になったりする。
 とはいえそれにしてもただの円筒形を描いて済むわけではない。

 実情としては、それは絵の描き手の興味によるという。基本的には、女の子を好んで描こうとする絵描きは筋肉に着目も執着もしないという。どちらかというと、筋肉への注意は、やはり男性キャラを描く時に強くなるようである。
 それにしても筋肉や骨格を無視して人体を描こうというのはあまりにいただけない。肌色の円筒形などを見て何故欲情できるのか謎である。
 そして近年の着エロの風潮がそれに追い打ちをかけるのだが、あまりに余談なので言及はやめておこう。


 ファンタジー世界とは関係のない話になってしまった。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:健康

ファンタジー世界の居住性 [ファンタジー世界考察]

 最近ファンタジー世界、異世界転生なるものが大流行である。

 私は好きではない。

 何故私が異世界転生を好かないのかさっぱり理由はわからない。理由の一つはあまりに転生のシステムが安易に思えるからかもしれない。たとえばナイツ&マジックの転生はあまりに安易でご都合主義的に思えた。死んだら理想の異世界に行けるとか、なんというか極端すぎる話をすればそれなら自殺もしたくなる。あとナイツ&マジックは転生先にも親がいるのだが、既に人格形成が済んでいるためにその親の存在意義が薄く、そこが軽薄にも見えた。幼女戦記のように孤児として転生すれば納得もできる。だいたい少年少女が自立して活躍するために親が片方なり両方なりいないのはストーリーテリングの基本でもある。


 あともう一つはファンタジー世界に特別暮らしたくもないというか、そもそもファンタジー世界は特別快適でもなく、居住性も低いというのがある。これだけファンタジー世界に憧れていながら今更なんであるが。


 たとえば、一番大きな差異の一つが窓ガラスである。中世ヨーロッパには窓ガラスなどなかった。こんな単純な知識であるのに、ファンタジー世界の居住性に極めて関わるがために無視されている事象の一つである。最近だとFate/Apocryphaの回想シーン、即ちジークフリートやジャンヌ・ダルクの「生前」の街並みの背景絵で家々の窓に全部窓ガラスが嵌っていた。ジャンヌ・ダルクはもちろんのことジークフリートの時代にあんな窓ガラスというのもおかしなことである。
 そもそも我々が想像する、というより日常目にする板ガラスの量産方法が確立されたのは19世紀とか最近なのである。それまでの板ガラスの製法は、まず壜やコップのように円筒形にガラスを膨らませ、その円筒を切り開いて板状にするというものであった。当然ながらそうそう大きくできないし、手間がかかるから高価である。しかも綺麗な平面にもならないし、当時は透明にならずやや緑色を帯びていた。ヴェルサイユ宮の鏡の間などは当時の技術の粋であり、ロンドン万博においてすら水晶宮は驚異であった。1520年、イングランド王国とフランス王国が懇話のために設けた通称金襴の陣における、仮設宮殿に設えられた一枚の窓ガラスはファンタジー世界でいうならばマジックアイテムに等しい奇跡的なものであっただろう。
 では中世ヨーロッパの家々の窓にはどんなものが嵌っていたか。木の板である。当然光は入ってこないから室内は暗い。あるいは、採光のため窓は空いているが外気も吹き抜ける。冬は窓を閉ざして灯りをつけるか、太陽光のために寒さに凍えるかである。
 上記の通り板ガラス自体は存在した。しかし窓ガラスは小さく、透明ではなく、凸凹で、ひどく高価なものであった。だから城などでも、人が移動するたびに窓ガラスはサッシごと取り外しては人のいる部屋の窓にだけ嵌められた。つまりガラス窓を取り外しては持ち運び、在住する部屋の窓に嵌めた。
 板ガラスの製法はどう頑張っても中世ヨーロッパの技術力では量産できないものである。だからまずもって中世ヨーロッパ風ファンタジーの世界にガラス窓は普及できない。工夫の余地は少ないのだ。魔法で作ればといっても、大抵のファンタジー世界では魔法はポピュラーなものではないし、あるいはドワーフの技法などといってもドワーフが近代的工場を持っているわけではない。せいぜいできるのはドワーフの技術を秘技としてブラックボックス化させることだけである。


 他にファンタジー世界の居住性で問題になりそうなのはトイレである。なにせこれが面倒でこのブログでは冒険者はトイレに行かないと結論づけたくらいである。
 ファンタジー世界のトイレでネックになるのは二つ。一つは下水処理である。中世ヨーロッパ、というより割りと近代まで、パリのような都市でも下水はなくて、おまるにした屎尿を窓からぶちまけていた。ファンタジー世界の都市はなにより臭い。
 もう一つはトイレットペーパーである。そもそも中世ヨーロッパには紙がない。古来から人々が大便をしたあと何で尻を拭いていたか、それが問題である。葉っぱや木箆で拭えればまだましな方で、今だって文明化されていない世界では手で拭って水で洗うような場所もある。
 そんな異世界に転生したいだろうか?


 最後にファンタジー世界の食事である。

 最近はグルメ漫画が流行していて、ついでにファンタジーも流行しているから、ファンタジーグルメというジャンルも確立されつつある。
 しかし間違いなくいえる。

 ファンタジー世界の料理は大して美味しくない。

 まず材料である。
 砂糖がない。極めて高価な輸入品である。香辛料もない。肉は堅い。豚と鳥は食用に飼育されているがそれでも飼料は豊富ではない。牛肉や馬肉などは、そもそも牛も馬もファンタジー世界では食べるものではなく農耕のための家畜である。今で言えばトラクターである。そうそう潰して食べられない。ただ、基本的に冬を越すための飼料を確保できないので、冬が来る前に一定数屠殺する必要はあったのだが。そして牛も馬も、ついでに豚も鳥も食用としての品種改良が進んでいない。現代のブロイラーなどは食味のために特殊な飼育をされている。フォアグラなどよりよほど残酷な飼育をしている。話はずれたが、つまり、中世ヨーロッパというかファンタジー世界の肉は脂も乗っておらず、堅く筋張ったものだと考えた方がいい。特に牛肉については。
 他にも野菜にせよなんにせよ品種改良されていない食材というのは魚介類だけともいえよう。

 といってもファンタジー世界のグルメを一概に否定する必要はないのである。
 つまり、生まれた時から中世ヨーロッパの「まずい料理」に慣れているのなら、ファンタジー世界にも美味しい料理は幾らでもある。
 しかし、現代の「美食」に慣れた舌なら、ファンタジー世界の料理はとても物足りないものであろう。異世界転生など受け入れがたいものとなるだろう。

 もっとも、一年も転生先で暮せば慣れるのかもしれないが。
nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:住宅

名剣伝説 [ファンタジー世界考察]

 久しぶりになにか書いてみる。久しぶりなので脈絡も根拠もなく気ままに書いてみる。


 ソシャゲとかスマホゲームとか言い方は一定しないが、ともかく基本F2Pでできるスマホゲーム。

 私は嫌いである。

 しかしF2Pである以上手を付けやすいし、現状手を付けられる二次元的な萌えのあるファンタジーワールドのゲームはスマホゲームばかりである。なにせうちにはゲーム専用の機械(コンシューママシン)がなにもない。いや、DSがあったか。

 さて、ららマジというゲームがある。シナリオがそれなりに良質である。というかスマホゲームで「いいシナリオ」と思ったのは大人気のFate/GOとシノアリスとららマジくらいで他のゲームは特筆すべきなにものもないと思っている。
 閑話休題。ららマジの中の重要アイテムに「ノートゥング」というのがある。音叉の形状のマジックアイテムである。名前の由来は当然ながらリヒャルト・ヴァーグナの楽劇「ニーベルンクの指環」に出てくる英雄ジークフリートの剣である。ジークフリートのお話はあとに回そう。

 ところが困ったことがある。ららマジでは声優が「ノートゥング」のアクセントを「トゥ」に置くのだ。しかし「ノートゥング」のアクセントは「ノ」に置くのである。ヴァーグナの楽劇を散々(というほどかわからないが)聞いているので私の中でノートゥングといえば「ノ」にアクセントがある。だがららマジのストーリーを進めるとご丁寧なことにフルボイスなものだから散々「トゥ」にアクセントのある「ノートゥング」を聞かされる。私はそのたびに違和感を突きつけられるのである。面倒ったらない。
 これなどは無知な方が助かる好例である。日本人のほとんどはノートゥングの正確な発音など知らない。私にしたってヴァーグナの楽劇でノートゥングの発音など知らなければなんの違和感も持たずにららマジのストーリーを楽しめたことだろう。無知な方が幸せなのである。
 だいたい私にしてもノートゥングの発音こそ気にしているが「ジークフリート」の発音は気にしていないようなのである。ドイツ語なら「ジークフリート」の「ジ」にアクセントを置く。しかし今の日本のファンタジーにせよなんにせよ創作では「リ」にアクセントを置く。
 それに無知を問題にしていたらどこまでも限りがない。ヨーロッパ圏の人名の正確な発音など把握しようがない。まあ、ある程度の法則はあるが。つまり、ゲルマン圏は頭の方にアクセントを置くことが多いし、ラテン圏は尻にアクセントを置くことが多い。

 ちなみにジークフリートの剣には三つの名前がある。バルムンク、グラム、ノートゥングである。ノートゥングは多分ヴァーグナの創作である。ニーベルンクの指環は元の北欧あるいはゲルマン神話やニーベルンゲンの歌を大幅に継ぎ接ぎして創作されている。
 だから今では「権威」となったヴァーグナであるが、実のところ創作というレベルでは今のファンタジー作家と同じスタートラインであったともいえる。


 ジークフリートといえば最近ではFate/Apocryphaに登場して……まあ出番がないわけであるが。ジークフリートといえば伝説でも一線級の英雄でアーサー王なみに「英雄度」の高い英雄なのに残念なことである。
 それはどうでもいいのだが。Fateシリーズもすっかり様変わりしたように思える。特に、真名をホイホイ明かしている。何のためにセイバーだのアーチャーだの呼んでいたのかさっぱりわからなくなってしまった。元はといえば真名から弱点を知られないためであったのにもはやただのパワープレイである。
 たとえば、ジークフリートなら竜(ファフニール)の血を浴びたことで傷のつかない身体を手に入れた。いかなる攻撃も弾くとされる。しかし弱点として、竜の血を浴びたときに背中に葉っぱが一枚貼り付いていたため、そこだけは傷つくのである。だからハゲネはそれをブリュンヒルドから聞いて首尾よくジークフリートを暗殺した。
 しかしまあ最近のFateではそんなことお構いなく真名を垂れ流しているし宝具だの弱点だのもない力押しだしそもそもジークフリートにはなんの見せ場もなかった。
 本来であればどれだけ攻撃してもそれが通じないセイバーだが真名から弱点がわかりランサーかなにかに背中を貫かれて死ぬくらいのことはあってもよかったのである。

 Fateつながりでいうと、ジャンヌ・ダルクが聖女様として聖女聖女して登場してくるが、あれは「フランス民族」の政治的でナショナルな民族的英雄に過ぎないので高潔な聖女面されてもさっぱり腑に落ちない。世界史上の位置づけはせいぜいシャルル7世の小道具にすぎない。なによりフランスとかいう近代国民国家のイメージが強すぎる。カトリック教会でも列聖されたのは最近のことである。


 さて、ちょっと話をずらして。記事のタイトルは名剣伝説である。ので名剣つながりで「アロンダイト」の話を。
 今ではすっかりおなじみ……といえるのかわからないが、アーサー王の騎士筆頭であったランスロットの剣であるとされている。
 しかしどうもこれが新紀元社の誤情報あるいは捏造である可能性が高いらしい。不明確なことなので断言できない。

 新紀元社といえば日本のファンタジー界における一つの権威であり水先案内人である。日本のファンタジー界に「正確な知識」を移入したのは新紀元社の功績であったといっても過言ではない。ところが、新紀元社の本は学術的なものではない。一応「出典」にした書籍は載っているのだが、具体的にどの記事が何を根拠にしているのか細かく載っていない。
 で、アロンダイトは「新紀元社の本」以上に原典を辿れない、つまり英語の書籍だの伝承だのにその名前がないらしい。

 まあ、こんな「ソースがない」と放言しているブログに指摘されてもどうしようもないだろうが。あるいは新紀元社の功罪とでもいうべきものが存在するのかもしれない。


 それで最後にファントムオブキルの話をして記事を締めようと思ったのだがいささか疲れた。それにファントムオブキルの何を書こうとしていたのか忘れてしまった気もする。なんだっけ。
 とにかく何故か私はファントムオブキルを気に入っているのである。上に挙げたように特別シナリオ的に評価していない気がするのだが。
 なんだかファントムオブキルは伝承や神話の剣だの槍だのの擬人化だから刀剣乱舞に先行しているじゃないか、とか思った気もするけれど、取り上げたかった話題はそれではなかった気もする。

 というわけで曖昧なままこの記事を終えようと思う。忘れてしまったので。

 そういえば、この手のファンタジーというか二次創作的なファンタジーでジョワイユーズ出てこないなとか思ったのだった。ファントムオブキルにジョワイユーズは出てこないのだろうか。Fateシリーズもそのうちシャルルマーニュが出てきてジョワイユーズ振るったりするのだろうか。アストルフォは登場しているが、ローランすら出てこない。ローランの剣ってなんだっけ。デュランダールでいいんだっけ。ああ、曖昧だ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ゲーム

ファンタジー世界の文系と理系 [ファンタジー世界考察]

 二日もつまらない廃疾者のたわ言で潰してうんざりされていそうなので少し目先を変えてみる。

 といってもこのタイトルだと二つ記事が書けるのであるが……


 ファンタジー世界の学問というのはどんなものか。基本は自由七科(リベラルアーツ)になるのであろう。自由七科は中世ヨーロッパで一般的な学問だったもので、文法学、修辞学、論理学の三学、算術、幾何学、天文学、音楽の四科をいう。単純にいうと三学が文系で、四科が理系である。これらは哲学、そして神学を学ぶ上で必須とされた。「自由」というのは、自由人の学問とでもいった意味である。
 音楽が何故数学かというと、たとえば和音というものを考えると、それが数学的に構成されていることからわかる。音楽は感性で成り立つものではなく、数学で成り立つのである。
 現代の音楽と天文学はともかく、他の科目は現代の哲学にもつながる。哲学に数学的な論理的思考は欠かせない。
 とにかくも、中世ヨーロッパの学問の中心は神学であろう。ある意味すべての学問は神学に隷属するものであった。
 その他にはどんな学問があったのか。文系なら法学。理系なら錬金術、占星術、医術などがあるだろう。錬金術も占星術も当時の学術水準でいえば立派な学問であった。異端的ではあったが。いわんやファンタジー世界においては、錬金術も占星術も「現実」なのである。
 魔術というのは、神学にも錬金術にも占星術にも通じる。渾然一体となったものなのだろう。


 もう一つの視点の話。現代的な「文系と理系」の視点で見たファンタジー世界について。

 ファンタジー世界について、リアリズム的な観点から文句をつけるのにあたって、理系的(あまりに曖昧な言葉であるが)な観点はそれほど重要ではない。物理法則とかそういう観点から文句をつけるのはあまり意味がない。
 たとえばペガソスが飛ぶのにあの翼では飛べないはずではないか、というような非難はあまり成立しない。風の精霊の力であるとか、神の意志が働いているからとか、そんな回答をすれば済むのである。
 そう、ファンタジー世界というのは、そもそも我々の知る科学では成立していない。四大精霊、神の奇跡、魔術、そういったもので構築されている。いや、そういったものが現実である世界こそがファンタジーなのである。四大精霊の存在に化学や物理の文脈で反論するのがどれだけ無意味なのかは少しでも想像すればわかるというものである。

 しかし文系の知識は大いに役立つ。ファンタジー世界を語る上で経済学や社会学は有効なのである。ファンタジー世界にケチをつけるのに経済学や社会学の知識を動員することは正当なのである。
 何故か。それはファンタジー世界といえども生きているのは同じ人間だからである。ファンタジー世界で、たとえば、飢餓輸出が起きることを「神の御業」とか「精霊の仕業」とか解説することは適切ではない。ファンタジー世界で飢餓輸出が起きたとしてもそれは我々の現実世界と同じ理由からであろう。そしてまた、ファンタジー世界に生きる人間が我々と同じ人間である以上、飢餓輸出は起こりうるのである。ファンタジー世界にギッフェン財のような概念を持ち込むことは妥当なのである。

 ファンタジー世界の物理法則は幾らでも捻じ曲げられる。空を飛ぶのも、炎を吐く竜も、卑金属を貴金属に変えるのも、自由自在である。もちろん無制限なわけでもないが。
 しかし、ファンタジー世界でも人間と社会はままならない。我々と同じ人間が生きているとされているからである。もちろん、工夫すれば、戦争も差別も憎しみもないファンタジー社会の設計も可能かもしれないが、大変困難であろうことは、ユートピア文学の存在を考えればわかるし、大方の読者はファンタジー世界がユートピアたらんと欲しているわけでもない。
 ファンタジー世界も同じ相互理解可能な人間が構成している社会である以上、グレシャムの法則もギッフェン財も存在するのである。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

ファンタジー世界に淫する 書割の向こう側へ [ファンタジー世界考察]

 昨日は偉そうに書いたが、しかしたとえば作家が「自分の作品が売れないのは読者の想像力がないからだ」などと嘆くのがいかに馬鹿馬鹿しいか想像すると、馬鹿な記事ではあった。
 昨日も書いたようにここに書いたのは極論である。

 JRPGの絵面が綺麗すぎると書いたのだが、それは別に純粋にイマジナルな領域におけるものだけではない。つまり、JRPGは清潔すぎるのである。といってもトイレが完備されているとかそういう話ではないが。
 まあ実際昨今の出版状況を鑑みれば当然ではあるのだが、たとえばファンタジー世界なのに売春婦とか犯罪とか貧民街とか阿片窟とかが欠けている。そういう意味で清潔すぎる。もちろんまったくないわけではないし、匂わせているものはある。しかしどこか胡散臭い。
 結局こういう問題に行き着くのだが、現代のファンタジー世界にはユダヤ人やジプシーや癩病患者のような要素を盛り入れるのが困難なのだ。これらは中世ヨーロッパの話をするのに無視できない。もちろん直接こんなものを描写するわけにいかない。それでもエルダースクロールシリーズなどをみるとアルゴニアン(蜥蜴人)やカジート(猫人)などがどこか似たような役割を演じていて、匂わせている。


 しかし何故また私はこうもリアリズム気違いなのか。
 一つには私がファンタジー世界に淫していたそれが最もひどい時期に接触していたのがTRPGだったからというのもある。もっとも、実際にプレイしたことはなく、ルールブックやリプレイやシナリオ集を読んで憧れていただけだったが。

 小説とか、コンピューターRPGの場合、実のところ世界の設計など、リアリズムのあり方など、芝居の書割で十分なのである。創作物として伝えたい「何か」(基本的にはストーリー)さえ整っていれば、あとはどうでもいいのである。感動的なストーリーの前には多少の世界の矛盾など綺麗に流されてしまうであろう。
 ところがTRPGの場合そうはいかない。ゲームマスターにせよプレイヤキャラクタにせよなにをするかわからない。別にダンジョン潜って敵を倒すのだけがシナリオであると決められているわけではない。ちなみに私がソード・ワールド2.0を嫌っている理由の一つは世界観の設計段階でシナリオの内容をダンジョン潜りに限定しようという設計者の意図を感じてのことらしい。閑話休題。TRPGの観点でいえばシナリオはかなり自由である。ゲームマスターの裁量次第であり、プレイヤキャラクタは比較的自由である。無論プレイヤキャラクタが「ドラクエ的発想で」他人の家に入り箪笥を物色などしたらルンルンと牢屋行きであるが。まあ閑話休題。
 ゲームマスターは別にダンジョン潜りのシナリオしか考えてはいけないわけではない。たとえばプレイヤキャラクタが立身出世すれば騎士に叙爵されることもあるだろうし(そこまで出世したら引退かもしれないが)、そうではなくても社会的地位が上がって国王から依頼を受けるかもしれない。いや別にそこまで出世せずとも、商人などがからむ仕事を受けるかもしれない。つまり、そういうところで、政治や経済に触れる可能性があるのである。宗教などはなおさらである。聖職者のでてこないファンタジー世界などないといってもいい。パーティの回復薬といえば聖職者である。
 つまり、特にTRPGの文脈で考えるなら、モンスターとマジックだけ考えてファンタジー世界を作って済むわけではないのである。
 それかあらんやソード・ワールド(無印)は後日、世界観を補填するためにかなり量の多い設定資料を出版している。もっとも、ここで書いたような社会的側面はメインというわけではなく、幻獣の生態などといった分量も多いのだが。

 ただ私がファンタジーでリアリズム気違いになるのはTRPGだけが理由でもないらしい。そのことについてはまた今度。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ゲーム

ファンタジー世界に淫する JRPGと想像力 [ファンタジー世界考察]

 三月頭、ガストの「フィリスのアトリエ」がおま語解禁されたので購入してみた。どうやら、オープンワールドを目指して作られたものらしい。しかしオープンワールドはガストの開発能力の限界を越えていたらしく……というのは少し措いておこう。
 私が気になったのは絵の綺麗さである。ここでは批判的に書いている。絵が綺麗だから「よくない」のである。正確にいうなら絵が綺麗すぎるのである。
 いってしまえば私が比較対象にしているのはエルダースクロールシリーズ、オブリビオンやスカイリムである。比較対象としていささか無理があるのは承知である。
 主人公フィリスの服が服飾考証的に滅茶苦茶なのはまあいいとしておこう。そんなところまで目くじらを立ててもしょうがない。それにしてもである。絵が綺麗すぎる。街の壁、岩、そういったところが綺麗すぎるのである。模型の用語でいうなら「汚し」が足りない。生活感のなさというのはある程度譲歩(正確には諦めだが)できるとしても、これ以上のリアリティの譲歩が認められるとも思えない。まるで背景のオブジェクトが芝居の書割なのである。
 アトリエシリーズのコンセプトは承知しているつもりである。アトリエシリーズがリアリズムに繋がった質実剛健さなどとは無縁なことは百も承知ではある。にしても、久しぶりに「JRPG」をやってみると(それがアトリエシリーズというのは極端なのだが)文句も垂れたくなる。

 そもそも、ファンタジー世界のリアリティというものはどのようなものなのだろうか。

 JRPG(ここでは貶下的に使っている)とリアリズムというのは特別相性がよくない。日本のRPGの歴史というのはウルティマやウィザードリィなどのコンピューターRPGからはじまっている。TRPGや文藝の影響が相対的にひどく低い。
 当然のことながら当時のコンピューターRPGが再現できる「世界」など限界がある。いってしまえば、コンピューターゲーム的な発想というのは、ストーリーが取り繕えれば他の設定はどうでもいいのである。ドラクエ世界で経済の心配などしなくていいのである。
 その差異は小説版の『ドラゴンクエスト』を読むととてもわかる。著者の久美沙織は最低限の情報しかないファミコンのドラクエを苦心惨憺して現実のものとして描写しているのである。たとえば街と街の間の距離、そこを騎馬で移動した場合の時間、その間に必要な補給。……
 これだけ「破綻」している「ファンタジー世界」なのだが、日本ではそのままコンピューターRPGだけが発展してJRPGを形成した。TRPGは明らかに立ち遅れた。
 結局JRPGたるファンタジー世界が日本のファンタジーのヘゲモニーとなった。ライトノベルとTRPGはそれに追随した。
 前も書いたが、久美沙織はドラクエの経験から、こんな質の悪いファンタジーは一掃される、と述べたのだが、結局悪貨が良貨を駆逐して終わった。

 アトリエシリーズ、というかガストの作品というのはJRPGの中でも特にJRPGらしい発展を遂げた作品群であろう(この文章のJRPGは貶下的な意味ではない)。なので特別JRPGの「標本」としてここであげつらったのであるが。
 なのでここではフィリスのアトリエを特に念頭に置いて書くとする。
 とにかく、絵として綺麗すぎるのが問題である。言い方を変えよう。醜いものがなさすぎるのである。別に主人公やサブキャラは綺麗でかまわない。だがそれにしても汚いところがなさすぎる。いや、あのようなパーソナリティの幼い作品を挙げてもそんなことを書いてもどうしようもない部分はあるのだが、しかしアトリエシリーズが単純なゲームであった時代ならともかく、オープンワールドを志向してしまった以上世界の、書割の「裏」まで見えてくるのである。

 近年、リアリティやらリアリズムを軽視し敵視する風潮があるがごときなのだが、いうも愚かである。だいたい、よく見ていくと、リアリズムを軽視敵視すると称する輩は、実際のところリアリズムにますます隷属してファンタジー世界を受容しているらいいのだ。

 つまり、どうやら、日本のファンタジー消費者は自分の実際的な繋がりがないとますます想像できなくなっているらしいのである。
 たとえば異世界転生ものが人気である。また、現実世界の主人公が異世界に飛ばされて活躍する作品は以前から定番となっていた。
 これは実のところ想像力の欠如と表裏一体であるらしい。つまり、まったくの空想上の世界、この現実世界と断絶したファンタジーへの想像力が乏しくなったので、現実世界とのとっかかりがある、現実世界からの転生や転移が必要になったらしいのである。もはや完全に空想の世界を想像できなくなったらしい。
 しかるにこの現実世界とファンタジー世界との創作上の紐帯をこそリアリズムと呼ぶのである。
 また、ファンタジー世界を「ゲーム的視点」でしか捉えれなくなるという想像力の衰微もある。つまり「ドラクエ的コード」で書かれた「勇者」だの「魔王」だのの物語がしばらく前から流行りだしたが、これはファンタジー世界を「実在的な」世界として想像できなくなったからであり、ゲームの延長線上でしか想像できなくなったからである。
 これなどは久美沙織のいう悪貨が良貨をみごとに駆逐してしまった例となる。

 ここであげつらっているのはあくまでファンタジー世界への想像力についてだけである。いってしまえば、極論しか書いていない。更にいうなら、このブログ自体極論ばかりである。全否定しているのであれば誰が好きこのんでフィリスのアトリエなど購入するであろうか。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ゲーム

ソースはありません その2 [雑記]

 今さっき調べてみたが、「ソースはありません」の中で私が水晶の記事で「水晶は氷の化石である」とか書いたと書いたが、水晶の記事を見てみたらそんなことは書いていない。よく考えてみたら化石などという概念は近代的にも思う。しかしそう思い込むくらいに私が「古代では水晶は氷の化石であると信じられていた」という認識を強くもっていたということである。
 こうなると澁澤龍彦の水晶についての記述を探したいが、昨日書いたようにこのブログは無責任なものなので別に調べてはいない。一応、「氷の化石」で検索するとそれらしき記事が出てくる。もっとも、スピリチュアル系のものばかりだが。
 一応Wikipediaの記事には大プリニウスによって永遠に溶けない氷だと信じられたなどと書かれている。が、大プリニウス先生一人が信じていただけのなら水晶と氷両方にクリュスタロスというギリシア語が冠せられたりしないだろうし(大プリニウス先生はローマ人であるし)、古代世界の常識であったのだろう。

 マルティコラスの方は一応確かである。というのは、『私のプリニウス』にはちゃんと澁澤龍彦がプリニウスが伝え間違えたと書いているからである。これを根拠に私は「大プリニウス先生のスペルミス」と称してきたのである。
 そうなるとWikipediaの記事はあやふやである。マンティコアはギリシア語でマンティコラスであるなどと書いているし、クテシアスもアリストテレスもマンティコラスと述べていたかのようにみえるが、マンティコラスなるものは大プリニウス先生の間違いであるから、クテシアスもアリストテレスもマルティコラスと書いていたのに違いないからだ。
 ただネットで探してもマンティコラスが大プリニウス先生のスペルミスなどと書いているのはこのサイトだけみたいなので不安にもなってくる。なので確認してみたが『私のプリニウス』には大プリニウス先生のミスだと書かれている。

 水晶の方は澁澤龍彦のエッセイをちょっとあたってみたがどの巻に記述があるのか見当もつかない。いつかわかる日が来るのであろうか。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ソースはありません [雑記]

 澁澤龍彦の『私のプリニウス』を読み返してみたが、宝石の項目の水晶(クリュスタロス)の部分に「水晶は氷の化石である」などと一言も書かれていない。

 水晶は氷の化石であるとは私が偉そうに一年くらい前に書いている。これは常識であって別に大プリニウス先生の説ではないとも書いている。
 しかし『私のプリニウス』には上記のことは書かれていないのである。

 多分澁澤のほかのエッセイにちゃんと水晶について書かれているとは思うのだが、調べてはいない。別にこのブログは学術的なものでもないしなにかに責任を負う必要があるわけでもない。とはいえ幾つかの項目でグーグル検索をかけるとトップにこのサイトが何故か出てきたりもするので、完全に無責任に振る舞っていいものかどうか迷う。
 だからサイトの説明に「ソースはありません」と書くようにしたのだ。

 だいたい澁澤龍彦はともかくとしても、大プリニウス先生もアリストテレスとかの受け売りをそのまま垂れ流しているのだから厳密にソースとか拘泥するのもどうなのかと思う。水晶が氷の化石であるというのも大プリニウス先生が創作したのかというとあまりそうとも思えない。もちろん私などがそんなものを創作できたりはしないのだから、大プリニウス先生なりアリストテレスなりがそう述べているのであろう。

 マンティコアがマルティコラスのスペルミスで大プリニウス先生が戦犯だというのもこれもあまりに自分の中では有名なので疑ってもいない。当該の記事に古代ペルシア語のスペルまで書いているのだから一応調べたのであろう。が、かといってそれを保障する気もない。

 いや、古代の大プリニウス先生と自分を比べてもどうしようもないのだが。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:
前の10件 | -