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ファンタジー世界の雰囲気 [ファンタジー世界考察]

 ファンタジー世界の雰囲気、というと実に漠然として曖昧模糊としてなんのことやらという気もする。

 ファンタジー世界の雰囲気は大きく二つに分かれる。曇り空のファンタジー世界と晴れ空のファンタジー世界とである。

 たとえば西洋の文化に根ざしたファンタジー、要するに海外産の、本場のファンタジーは曇り空のファンタジーである。指環物語にはじまり、コナンも、エルリック・サーガも、時代は下ってオブリビオンやスカイリムも、曇り空のファンタジーである。
 それに対して日本のファンタジーは晴れ空のファンタジーが多いように思える。ファイナルファンタジーも、ドラゴンクエストも、テイルズシリーズも、ゼルダやファイアーエムブレムも、書籍ならスレイヤーズからダンまちまで、スマホゲームでもファントムオブキルなど、それらのファンタジー世界はやたら空が晴れ晴れとして明るく、晴れ空のファンタジーだと思える。

 これらは当然ながら文化的差異が根底にあるように思えるのだが、むしろ文化的傾向というよりは知識の問題かもしれない。
 どういうことかというと、欧米のファンタジーの世界観は中世ヨーロッパが実在的なモデルとして存在するので、その影響を免れ得ない。それに比べて日本人には中世ヨーロッパについての知見など大して根付いていないので、空想的になる。

 とにかくも中世ヨーロッパというのは陰惨な世界であり、曇り空がよく似合うのだ。
 終わることのない戦争。俗界での封建君主たちによる政治抗争、暗殺、後継者争い。厳格で禁欲的なカトリック教会による恐怖支配。拷問、晒し台、娯楽的死刑。酸鼻を極める異端狩りと十字軍。小氷期による飢饉。癩病やペストなどの疫病。貧しい庶民の生活。人権を剥奪された人狼や賤民、ジプシー。

 中世都市における欠かせないアイテムの一つが晒し台である。
 晒し台は中世ヨーロッパの基本的刑罰の一つだ。街の目立つところに手枷足枷のある晒し台が設置されており、罪人は一日中そこに拘束され晒し者にされるという恥辱を受ける、という刑罰だ。中世ヨーロッパの都市建設シミュレーションなどだとよく設置できることがある。
 これに限らず中世ヨーロッパには公開で行われる刑罰は多い。一つは恥辱そのものが罰であり、一つは公開することで人民に刑罰の恐ろしさと犯罪の不道徳を見せつける抑止力であり、そして刑罰そのものが人民の娯楽でもあった。公開処刑に人民は娯楽としても熱狂した。近年でも中国や北朝鮮の公開処刑には人民の娯楽としての側面がある。中世ヨーロッパ都市建設シミュレーションでも上昇するのは治安ではなく娯楽である。
 中世ヨーロッパの都市というのは、街角を歩けば、公開処刑や晒し台、物乞い、レプラと呼ばれた癩病患者、見世物としての熊使い、売春婦の客引き、と陰惨な要素ばかりなのだ。

 また、カトリック教会というのも、基本的には恐怖で信者をどうにかしようという思想宗教である。カトリック教会に限らずキリスト教が「愛」を売り物にしてなおかつ納得できるような代物になるのはそれこそ二十世紀になってからの話である。二千年間カトリック教会は愛ではなく恐怖の宗教として君臨してきた。カトリック教会は20世紀は第二次世界大戦後の第二次ヴァティカン公会議でようやく恐怖の宗教をやめて愛の宗教になると宣言したようなものだし、プロテスタントなどはローマ教皇や公会議のような人的な愛による補完すら存在せず聖書がすべてであり、予定説などと知られるカルヴァン派の教義は死んですらなお救いなど存在しないのだ。
 だからカトリック教会などは人民を恐怖で支配するために悪魔などという発明に頼ったし、その証拠に今でもヨーロッパの古い教会ではバフォメットであるとかガーゴイルであるとかいうような悪魔たちが恐怖を振りまいている。
 カトリック教会は、というかキリスト教の本来の姿というのは、人間というのは罪に塗れた存在であり、地獄の劫火で苦しむのだから、それを避けるためにはキリストの教えとそれを受け継ぐローマ教皇にひたすら帰依するようにという教えである。恐怖を基盤としてそれから逃れたければ帰依しろという教えである。特にローマ教皇は教皇の「思し召し」次第でその罪を赦すことができるとした。だから十字軍に参加すれば教皇は十字軍戦士達の罪を赦すことができ、十字軍戦士達も罪の贖いを目指して聖地奪還に励んだ。更なる発展が世界史的に有名な贖宥状である。十字軍でも贖宥状でも、それら罪の贖いがあれば地獄の劫火から逃れられるのだ。

 中世ヨーロッパとはこういう世界なのだから、そもそも晴れ空なファンタジーにはなりようがない。

 日本のファンタジーは勃興期にCRPGの影響を強く受けたのも晴れ空ファンタジーになる要素となった。ファミコンでは使える色数の問題から陰気な雰囲気を出せるような繊細を求め得なかったし、また、ファミコンが子供向けのものとされてしまったので、子供向けに陰惨な世界を展開させるわけにいかなくなってしまった。
 それでも、スーパーファミコンの名作とされるタクティクスオウガなどは、中世ヨーロッパの陰惨な雰囲気を充溢させており、当時としてはなかなかに異色であった。オープニングからして曇り空に煙る太陽であったし、中身を開ければ処刑シーンや虐殺や拷問、レイプを示唆するシーン、薬物で廃人にさせられる主要登場人物など、中世ヨーロッパの雰囲気が芬々とした素敵な世界であった。もっとも、このゲームの虐殺などは同時期に行われていたユーゴスラヴィアの民族浄化をモチーフにしたもので、民族、あるいは民族自決などというのは19世紀になって確立されたむしろウッドロウ・ウィルソンなどを思わせる20世紀独特の要素だから、いたずらにタクティクスオウガを中世ヨーロッパ的などとは申せない。
 同時期の真・女神転生なども、ファンタジーなどではなく世紀末的SFなのだが、陰惨とした世界観で知られ、日本のファンタジーゲームの世界観としては豊潤な時代であったと申せよう。真・女神転生IIなどに至ってはラスボスがヤハウェである。
 しかしこれらの遺産を特別今のファンタジーが発展させられているかというと疑問である。タクティクスオウガはファイナルファンタジータクティクスとして、真・女神転生も同シリーズあるいは派生作品、並びに同ゲームメーカーの作品として独自の世界観を築いており、また奈須きのこのタイプムーンなどというニューウェーブもあるが、現代日本のファンタジーはファイナルファンタジーの気持ち悪い宗教やテイルズシリーズの胡散臭い正義などといった唾棄すべきものもまた目立つ。

 日本のファンタジーで唾棄すべきものは胡散臭い薄っぺらいくだらない正義のドグマである。
 日本のファンタジーは、西洋のそれを受け継いでおらず、また勃興期に子供向けとされてしまった関係もあり、やたらと正義のドグマに縛られている。
 海外のファンタジーを見ると、主人公が冤罪にしても罪人として登場するケースが割りと多くある。オブリビオンもスカイリムも主人公は犯罪者として収監されたり処刑されそうになるところからはじまる。これはJRPGには出来ないことなのだ。何故ならJRPGの主人公は見目麗しい青少年でなければならないからだ。コナンシリーズの最新ゲームなどはバイオレンスな世界であり、敵を倒したら殺すのはもちろん、奴隷として売り払ったり、奴隷に奴隷がよく回しているなんか丸いレバーの付いたアレを回させたりとやりたい放題である。こういった邪悪な主人公は、日本ではもはやドラッグオンドラグーンくらいでしか見かけない。エロゲならランスがいるが。あるいはFate/Zeroの衛宮切嗣なども、本人は正義の味方になりたいなどと称しておきながら正義の味方に全然見えない。

 だいたい、何故ファンタジーの主人公が正義の味方でなければならないのか。そこが謎である。確かに海外のファンタジーでも、主人公の最終的な目的とされているのは、世界を救うというおなじみのテーマをはじめとした「正義」とは設定されていることが多いが、しかし彼らが正義の味方を気取ることなどまったくない。そうせざるをえずやったとか、過程は色々あるにせよ、日本のファンタジー的な反吐が出るような正義の味方気取りとは無縁である。
 何故日本のファンタジーの主人公たちは品行方正な正義の味方でなければならないのか。
 それはもちろん、一つには、客層として子供向けというのがはじまりにあったことがある。今にしても、実際に購入しているのがおっさんおばさんであったとしても、名目上青少年がプレイしていることにされているわけである。これは購入しているおっさんおばさんもたいがいなものであり、お前らも年を取ったのなら年相応の成熟したシナリオを好めよとか思うのだが、彼らは年を食っても青少年向けシナリオしか楽しまない。
 いたずらな品行方正さも疑わしい。なんというか、公人になんでも品行方正さを求めて不倫しただけで公職から追放すべきみたいな近年の風潮にも合致しているように思え、一層気持ち悪い。別にファンタジーの登場人物が売春婦を買ってもなんの問題もないだろう。ランスロットにせよトリスタンにせよ不倫で高名である。

 更に疑わしいのは日本のファンタジーで賛美される正義の内容である。
 当然のことながらゲームメーカーやシナリオライターなどに社会哲学者や倫理学者、政治社会学者などが助言することはありえないから、日本のファンタジーで称揚されている正義などというのも軽薄なものである可能性が高い。当たり前であるが。いや、別に学者でなければ正義がわからないというつもりもないけれど、シナリオライター風情にそんなものを求めるのもどうかと思う。彼らの中にダヌンツィオや三島由紀夫みたいな人物、まあこの二人はどちらも極右になるが、がいないわけでもなかろうにしても、三島やダヌンツィオみたいなのでも実際困るわけだが。
 一応こういった日本のファンタジーの正義とやらは戦後民主主義に根ざしていることになっている。幾らネトウヨ全盛期とはいえこの名目はどうやら外せないように思える。
 だがそもそも中世ヨーロッパをモチーフとした世界なのであるから、戦後民主主義などという思想が合致するはずがない。だから製作者はファンタジー世界から戦後民主主義にそぐわないものを排除する。なので日本のファンタジーには公開処刑や晒し台、レプラ、淫売婦、乞食などが登場しない。日本産ファンタジーの中には「民衆が苦痛を味わっている」みたいな設定もあるのだが、乞食すら存在しない世界ではなんの説得力もない。こういった賤民などを登場させると、有識者やジンケンハの「抗議」も怖いのだが、一つにはシナリオ的に面倒にもなる。正義の味方気取りの主人公たちはおそらく「最初の町」でレプラ患者や売春婦や乞食を救うだけで物語は終わってしまうであろう。

 ダンまちなどは「敵モンスター」を幾ら「たおして」「やっつけて」もまったく血が出ない。そう。彼らは何も「殺して」いないのだ。ダンまちのモンスターたちは血も出ない生物でもないあやふやな存在であるのだから、幾らでも彼らを虐殺できるのだ。虐殺してもなんの問題もない。血も流れない。比喩ではなく事実として血が流れない。モンスターなら好きなだけ殺せる。虐殺賛歌である。
 これが日本のファンタジーにおける正義の蹉跌となる。主人公たるもの、正義のためであれば「悪」を好きなだけ虐殺できるのだ。虐殺魔にとってはこんな理想郷もあるまい。
 以前に語ったようなテイルズオブゼスティリアなどはその窮極なわけだ。正義のためなら幾ら人を殺してもいい、それが同作品の「テーマ」であった。イスラム原理主義もびっくりである。

 彼らの正義を別の角度で馬鹿にすることもできる。
 たとえば、以前に日本のファンタジーの騎士団は国王直属の軍事組織となっていると書いたが、これは君主制に対する奇妙なまでの信頼とつながっている。つまりこの手の作品としてありやすいのが、大貴族や大臣が悪政を敷いて民衆を弾圧しているが、実際は国王あるいは王族、近年のファンタジーでは王女のケースが多くなるわけだが、彼らは心を痛めており、主人公は国王に直訴し、良識ある国王なり王族なり王女は「勅命」を下し、王権と直結した「正義の」騎士団と主人公たちが「騎士的な」交友を育み、邪悪なる大貴族や大臣を懲らしめる、という構図である。
 こういった正義の構造で失笑ものなのは、主人公たちは一見「戦後民主主義」的ドグマに従って、それらしい正義を口にするのだけれど、結果的に主人公がすがるのは「慈悲深い君主様」だということである。これは儒教的な考えでもあり、「綺麗な天皇」という日本的な思想にもつながる。無論、水戸黄門などというものと同じ発想であることはいうを俟たないわけだが。

 というわけで日本のファンタジーもへそで茶を沸かすような正義を気取るのはやめて多少は大人でも楽しめる作品を作って欲しいものである。
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ファンタジー世界の音楽 [ファンタジー世界考察]

 前に幾つかの企業のゲームに関する特許や商標登録はゲーム全体に対してむしろ悪影響なのではないかと書いた。極端に申せばコマンド型ターン制バトルなんてものについて、ゲーム黎明期にどこかの企業が特許を取ったりしていたら、その後のゲームの発展は遅滞をきたしていたであろう。ファイナルファンタジーでおなじみのアクティブタイムバトルはスクウェアエニックスが特許を取っていたはずであるが。
 かといってこういった特許や商標登録は重要でもある。特に近年、中国においては多数の剽窃ゲームが世に出されている。海賊版はもちろん昔からかの国では横行しているが、それに加えて、ゲームコンセプトだけではなくUIやデザインなど、明らかに特定のゲームから剽窃したようなゲームが多数存在する。あくまでも海賊版ではなく彼らはオリジナルと称しているが外側が変わっただけでほぼ剽窃といえるものが多数だ。
 近年特に中国で人気のPUBGなどは顕著で、日本などでも中国産のPUBG剽窃ゲームがスマホで人気になってしまっている。中国本土でしか遊ばれていないものも含めれば多数に及ぶ。だいたいPUBGの中国展開をしているテンセントがスマホで剽窃ゲームをリリースしているはずである。テンセントは日本でもソフトウェア展開を図っている。
 更にいうならPUBGのチーターの九割以上が中国人ユーザーである。確かにPUBGは中国で人気でユーザー数も多いがそれにしてもという数字である。
 ただ中国共産党政府はPUBGを歓迎しておらず当初はプレイ禁止の可能性もあった。理由はゲーム内容が共産主義にそぐわないという理由である。そのため血の色を緑色にして内容も「共産党国家の国家安全保障」をテーマとするよう改変された。
 しかしまあ海賊版やら剽窃ゲームやらチーターやらが跋扈している中で共産党的正義など掲げられても片腹痛いとしかいえないわけである。
 中国共産党は少し前にゲームプラットフォームであるsteamのコミュニティから中国国内からのアクセスをかの金盾で遮断した。ゲーム購入は普通にできるが。これも仮にsteamの全アクセスを遮断されても海賊版があるから問題ないなどと人民には思われている。
 中国共産党は金盾のような技術面と、インターネットの国家統制という思想とをパッケージして諸外国への輸出を図っている。これをば新たな価値観と称している。
 最近は国際政治の場で中国共産党、習近平が世界のリーダー気取りで正義を訴えることも多くなってきた。元々中国というのは国際的に特別共感も同調もされないなんの正義もないハードパワーだけの国家だったが、アメリカでトランプが大統領になり、アメリカが民主主義的正義を掲げるというソフトパワーを自ら放棄してみせたので、空いた「正義の座」に習近平がやってきて世界のリーダー面するようになったわけだ。トランプというのは中国の覇権のためにお膳立てしたわけである。
 余談が長くなったが。

 ここに書くネタというのは万物の事象の数だけあることになっている。いわば大プリニウス先生の博物誌のようなもので更にそれを人文科学や社会科学にまで敷衍しようというわけだ。
といっても内容は薄っぺらいのだが。
 今日は何を取り上げようか。

 ファンタジー世界の音楽というと二つの捉え方がある。
 ファンタジー世界で演奏されている音楽と、ファンタジー作品の劇伴として流される音楽とである。

 ファンタジー作品で流される音楽は、伝統的にはクラシックをベースとした、映画音楽の延長線上のものが多い。中世ヨーロッパ的な世界に、電子楽器や黒人音楽は似合わないということでもある。それから、一般的に中世ヨーロッパの音楽は馴染みがなく知られてもおらず、そもそも中世ヨーロッパ音楽は発展途上の音楽だから表現力に乏しいというのもあるだろう。それに浅い考えでは中世ヨーロッパもいわゆるクラシックのオーケストラの音楽だという誤解もしやすそうだ。
 コンピュータRPGだと、音楽製作者が伝統的に映画音楽からの兼務ということも多く、ドラゴンクエストなどのオーケストラ調の音楽に親しんできた歴史もある。この点、女神転生などは世界観は異なるものの、近代的大衆音楽をRPGに移入した旗手ともいえよう。
 古臭いファンタジー的中世ヨーロッパに対する典型的誤解として、ヨーロッパ貴族というと絶対君主時代のものを想像される場合があり、この場合音楽も華やかなヨーロッパ的クラシックという誤解もあるかもしれない。しかし絶対君主時代的な貴族像というのは中世ヨーロッパより三百年時代が下るし、一般的なクラシック音楽が成立したのはフランス革命やナポレオン戦争が終わって後のことだ。比較的「古い」作曲家の、ヨハン・ゼバスティアン・バッハですら活躍は18世紀だ。中世とはかすりもしない。

 では中世ヨーロッパでどんな音楽が流れていたか。
 そもそも中世ヨーロッパという世界は比較的娯楽に乏しく、世俗音楽よりまず宗教音楽、教会音楽が音楽を牽引していたともいえる。いわゆるグレゴリオ聖歌などというのがそれである。我々が思いつきやすいもう一つの教会音楽たるパイプオルガンなどは、中世ではまだ技術的に発展途上であった。
 禁欲的教義のカトリック教会が支配的な中世ヨーロッパであっても教会音楽は宗教的法悦を高める手段として重要視されていた。

 しかし世俗音楽が発達していなかったかというともちろんそんなことはない。音楽の発展しない文明など存在しないだろう。
 では中世ヨーロッパの世俗音楽とはどのようなものだったかというと、いわゆる民族音楽に近いものであった。楽器は後にオーケストラを構成するような楽器、ヴァイオリンやフルートの原型となる素朴なものであり、あるいはギターの祖先であり、またほぼ滅んでしまった楽器もある。現代の楽器に比べると音も素朴である。たとえば現代の弦楽器は金属などでできた弦が張られているが、当時の弦は畜獣の腸などでできていた。現代の楽器より音も小さく、いわば非効率的な楽器であった。音楽的には、クラシックの音楽などと比べると、小規模なのはもちろんだが、打楽器が多く、リズミカルで「クラシック」などと比べると旋律や和音なども実に素朴な、あるいは稚拙なものである。ちなみにギターをはじめとする「素朴な」楽器がオーケストラに生き残れなかったのは音量が小さかったからである。チェンバロやハープシコードなどもそうであるが。
 古いファイナルファンタジーの重要アイテムにリュートというのがあるが、これも生き残れなかった弦楽器、撥弦楽器の一つで、有名なファイナルファンタジーのテーマというのもこのリュートによって奏でられているという設定であった。撥弦楽器は全体的に音量が小さく、リュートもギターもチェンバロもハープシコードも、あるいは絵的には有名なリラや、すっかりマイナーになって日本人には存在も知られていないツィターなども、撥弦楽器であったが、音量の小ささ故にオーケストラのメンバーに加われず、ギター以外はほぼ滅んでしまった。
 これらの音楽は現代特に「古楽」として知られ愛好を集めている。

 しかしこういった情報などは、音楽であるのだから、百聞は一見にしかず、この場合は百文は一聞にしかず、実際に聞くのが早い。
 NHK-FMで午前6時から、古楽専門チャンネルが流れているので、それを聞けばすむわけである。まあ、古楽という場合「クラシック以前のヨーロッパ音楽」という意味であるから、14〜17世紀の音楽がメインでありやや中世とは外れるが、雰囲気をつかむのにはいい。朝早いが今ならインターネットでタイムシフトで聞ける。

 中世ヨーロッパ音楽であるから、欠かせないのは吟遊詩人というものである。彼らはリュートやリラなどをかき鳴らしながら歌詞に英雄譚や恋愛譚などを歌った。あるいは楽器がなければアカペラで歌った。
 Skyrimを遊んでいて宿屋に入ると男が歌っているのが吟遊詩人で、なんか適当に節つけて歌っている感じにすぎないのだが、とても雰囲気が出ている。
 クラシックに連なる音楽にしても、元々は即興性が強く、決まっているのは通奏低音と呼ばれる低音演奏だけであり、演奏者がかなり自由に低音に合わせた和音で即興的に演奏するものであった。

 最近はファンタジー作品のBGMとして古楽的な音楽の見直しも進んでいて、狼と香辛料やダンまちなどのBGMはヨーロッパの古楽を思わせるものになっている。
 一方でテイルズシリーズなどは古楽の欠片もない壮大感を全面に出した古典的BGMだが、別にそれが悪いというわけでもない。大して関心もしないが。
 またタクティクスオウガなどは現代大衆音楽の要素も色濃く黒人音楽由来の打楽器で構成される音楽もあるが世界観とはマッチしておりよいものであった。
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ファンタジー世界の杞憂 [ファンタジー世界考察]

 杞憂という言葉がある。

 春秋時代に杞という国があった。夏王朝の末裔であり伝統はあったが弱小国家であった。杞に住むある男は、天が崩れて押しつぶされてしまうのではないかと心配で、ろくに食事もとれないありさまだった。この故事にちなんで心配しなくてもいいようなことを心配することを杞憂という。

 つまり、春秋時代も杞の国も存在しないファンタジー世界では杞憂という言葉は使えないのだ。ただ、ただの二字熟語にも見えるから、語源を考えなければつい使ってしまいそうにも思える。


 宋襄の仁という言葉もある。

 同じ春秋時代にあった宋の国の襄公が、戦争の際に、相手の陣形がまだ整っていないのを見て、それを慮って相手の陣形が整うまで待ち、戦争に負けたという故事である。いらない仁を見せて大切なものを失うというような意味だ。

 これは使いにくい。杞憂はぱっと見て二字熟語にも思えるけれど、これはまず宋襄と仁とで二つに分かれているし、この故事を知らなくてもなにかしら故事がありそうに見える。


 ピュロスの勝利になると更に使いにくい。

 古代ローマのライバルであったマグナ・グラエキアの都市国家に傭兵として雇われたエペイロス王ピュロスは軍事の天才であったが、古代ローマ共和国軍を破るたびにピュロスの軍も損害を被り、決定的勝利も得られず、兵力が減っていき、勝ち続けているというのに損害ばかりで最終的に勝てないという故事からピュロスの勝利という言葉がある。

 これになると、ピュロスは明らかに一般名詞ではないし、ファンタジー世界にピュロスという過去の人物を用意する必要もあるし、使えない。


 実際のところどうなのか、ファンタジーなのにこういった言葉を使ってしまっていいのか、一度編集者などの事情に通じた人に聞いてみたい。

 とはいえしかし。ずっと前に書いたように、ダガーという言葉はダキア人という民族名に由来するし、短剣のバゼラード、弩兵が背負う盾であるパヴィス、銃剣の英語名バイヨネットなどはそれぞれヨーロッパの都市名バーゼル、パヴィア、バイヨンヌに由来するのだから、厳密性は追求できないのである。
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ファンタジー世界の騎士団 [ファンタジー世界考察]

 最近脱線した話題が多かったり個人的かつエモーショナルな話題が多かったので、面目躍如でもないが今日は真面目にファンタジー世界についての知識を披瀝したい。


 その前にちょっと枕の雑談を。

 役者不足という言葉がある。おそらく誤用されることの多い日本語筆頭だと思われる。というか役者不足という言葉自体が本来は存在しない。正確には役不足である。そして役不足という単語自体が誤用されている。役不足の本来の意味は、役者の技量に比べて役が端役である、小さい、不足している、ということである。しかししばしば、役回りに大して役者の技量が不足していると誤用される。
 何故こうなったか。一つには銀河英雄伝説が悪いと思われる。銀河英雄伝説で役不足という言葉が誤用の方で何度も使われているのだ。

 こういうことは別に以前にもあったようだ。例えば、すべからく、という言葉がある。しばしば誤用される用例として「すべからく滅ぼさねばならない」というのがあったとする。誤用としては「すべて滅ぼさねばならない」という意味だとされがちである。しかし「すべからく」の正確な意味としては「必ずや滅ぼさねばならない」という意味である。
 この誤用も「戦犯」ははっきりしているらしく、戦犯は唐十郎である。唐十郎が自著の中で「すべからく」を「すべての」という意味で使っているため他の文章書きもその意味で使ったのだという。



 さて本題。

 騎士団というものがある。ファンタジー世界では定番の存在であり、とりあえずとにかく格好良さげな組織とされている。しかるに現実に存在した騎士団をまったく参考にされていない感じもまたとてもする。ファンタジー世界を象徴する組織だとは思うが、日本のファンタジーにおける騎士団はそのほとんどが(しばしばいい加減な)想像の産物である。

 日本のファンタジーにおける騎士団は、たいていが軍事組織である。多くの場合国家に直属する軍事組織として描かれる。いわば国軍のことを騎士団とをば称する。これはソードワールド無印のでっち上げた設定である。
 あるいは同じ国家の軍事組織でも特別な地位を与えられている場合もある。ファイブスター物語などはそうである。この作品の場合騎士の存在自体が人間とは違う特別な存在だとされているので、その特別な騎士で作られる騎士団と普通の人間による国軍とは厳密に区分される。
 これらにはじまってタクティクスオウガからナイツ&マジックに至るまで、日本では騎士団といえばとりあえずなんかかっこいい軍事組織みたいな地位としてふわふわといい加減に定着している。


 さて、ここからは現実に存在した騎士団について振り返ってみる。

 まずそもそもの話なのだが、騎士団は英語ではオーダーと呼ぶ。ドイツ騎士団はチュートニックオーダーとなる。ただホスピタル騎士団とテンプル騎士団はそれぞれナイツ・ホスピタラー、ナイツ・テンプラーであるが。所属する騎士もオーダーと呼ぶ。

 騎士団の起こりは十字軍であった。騎士団は十字軍の修道組織として発足した。
 有名な三大騎士団は十字軍の興隆と共に生まれた。三大騎士団とは、テンプル騎士団(キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち)、ホスピタル騎士団(聖ヨハネ騎士団、ロードス騎士団、マルタ騎士団)、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)の三つである。三つとも修道院組織である。所属の騎士たちは修道僧でもある。だから本職は祈りを捧げることであり、彼らは妻帯も許されていない。
 基本的には聖地イェルサレムの守護という使命もあるが、修道騎士団の一番大切な役割は聖地巡礼の信者たちの保護であった。保護というのは軍事的な護衛というだけではなく、巡礼者たちが泊まるための宿泊施設の提供なども含まれている。つまり軍事組織という色合いはそもそも濃いものではない。

 テンプル騎士団はフランスの騎士たちが中心になって結成された。正式名称はキリストとソロモン神殿の貧しき戦友たちである。名前の通りテンプルとはソロモン神殿のことを指す。
 テンプル騎士団で有名なのが金融活動である。メンバーたちの所領は修道会であるから騎士団に共有されたし、世俗領主からの寄進もあり、そしてそれが複数の子供によって分割相続されることもないので不動産をはじめとする資産は貯まる一方であった。また彼らは巡礼者たちの財産を保護するために、現金を持ち歩かなくてもすむよう、彼らの財産を預かった。預金口座である。預金通帳などもテンプル騎士団のアイデアだったという。
 フランス国王フィリップ4世はそのテンプル騎士団の莫大な資産に目をつけた。そして当時の騎士団長ジャック・ド・モレーをはじめとする幹部たちを男色など様々な冤罪で逮捕、拷問の末に処刑した。この事件と莫大な資産故にテンプル騎士団は様々な陰謀論あるいはファンタジーの題材にもされた。
 しかしフランス国外ではテンプル騎士団は生き残る。ポルトガルではキリスト騎士団として現在も存続している。

 ホスピタル騎士団、聖ヨハネ騎士団は南イタリアの都市国家アマルフィの商人たちが中心となって立ち上げられた。アマルフィはナポリ湾にあった都市国家で、現在でもイタリア海軍旗には四大海洋都市国家の一つとしてアマルフィの旗がデザインされている。他の三つはヴェネツィアとジェノヴァとピサである。ホスピタルという名前からわかるように騎士団は巡礼者を保護する病院の運営からはじまった。
 聖地が陥落した後、彼らはロードス島に本拠地を移し、異教徒並びに異教徒と貿易する不埒なキリスト教徒への妨害活動を継続した。要するにイスラム国家とヴェネツィア共和国などへの海賊行為を行っていた。ロードス島はオスマン帝国により制圧されるものの、彼らはマルタ島に移転して活動を続けた。つまり海賊行為を続けた。一応地中海におけるキリスト教徒の海軍勢力としての地位があり、プレヴェザの海戦やレパントの海戦でもキリスト教連合軍として参戦している。
 その後も数百年彼らはマルタ島に居座っていたが、十字軍など遠い過去の昔となったナポレオン戦争の時にマルタ島を追い出された。その後もマルタ騎士団として、騎士団の本分に立ち返って福祉活動に従事している。国家ではなく、領土も有していないが、国連のオブザーバーとして国連のメンバーである。

 ドイツ騎士団はその名の通りドイツの騎士たちによる騎士団である。他の騎士修道会との違いとして、彼らはドイツ人の巡礼者しか保護しなかった。
 聖地陥落後はドイツ人の東方植民を目指す団体として、最初はトランシルヴァニアの領主に招聘されてトランシルヴァニアに根拠を置いたが、すぐに今度は北方十字軍に従事するためバルト海沿岸のプロイセンなどに展開した。北方十字軍は本家の十字軍以上に激烈なものであり、改宗しなければ殺すというものであり、多くの異教徒プロイセン人が殺された。そうして樹立されたのが、いわゆるドイツ騎士団領である。
 ドイツ騎士団領は宗教改革の頃、ホーエンツォレルン家の騎士団長の際に騎士団長がルター派に改宗して世俗のプロイセン公国となった。その後後嗣が途絶えたためそのままブランデンブルクのホーエンツォレルン家に併合され、後のプロイセン王国となる。
 ただドイツ騎士団の騎士修道会としての組織はカトリックの騎士修道会として、ハプスブルク家の元で存続した。

 これらが三大騎士団と呼ばれているものであり、いずれも騎士修道会である。主要な活動はあくまでも巡礼者の保護であり、そのための聖地防衛もそうであった。
 同様の組織には、東ローマ帝国の修道院の病院を起源とする聖ラザロ騎士団、イベリアでレコンキスタに従事したサンティアゴ騎士団、アヴィス騎士団、アルカンタラ騎士団、カラトラバ騎士団、イタリアの聖アヌンツィアータ騎士団、バルト海沿岸で北方十字軍に従事したリヴォニア帯剣騎士団などがある。


 これら騎士修道会、聖界騎士団に対して、修道僧をメンバーとはしない俗人で構成された俗界騎士団、世俗騎士団がある。

 俗界騎士団の先駆けとなったのがガーター騎士団である。これはイングランド国王エドワード3世が伝説のアーサー王の円卓の騎士に憧れて作ったものであり、十字軍的情熱とは無縁な代物であった。英語では「オーダー オブ ザ ガーター」であり、これはガーター騎士団とも訳されまたガーター勲章とも訳される。
 ガーター騎士団であるから騎士団員はガーターを帯びる。ガーターにはかの有名な"Honi soit qui mal y pense"「悪意を抱くものに災いあれ」という文句が書かれている。これはエドワード3世が、舞踏会で貴婦人がガーターが解けてしまって恥をかいてしまったところでそのガーターを自らの脚につけこの言葉を述べたとされる。有名だが、本当にあったのかどうかはわからないという。

 もう一つの有名な世俗騎士団として金羊毛騎士団がある。ブルゴーニュ公フィリップ善良公がイングランドのガーター騎士団が格好良さそうなので自分も作りたいとか思って作ったものである。金羊毛はギリシア神話のアルゴルナウタイのことであるが、また旧約聖書のギデオンもモデルであった。聖アンデレを守護聖人として異端と戦うのが目的とされていた。一応十字軍が前提であったのだ。

 これらの世俗騎士団は修道会ではないわけだけれど、そもそも軍事組織ですらない。ガーター騎士団とか金羊毛騎士団とかがイングランドやブルゴーニュの軍隊として戦うわけではない。これらは、いわば名士クラブであり、王侯貴族の社交が目的であり、そしてまたただの栄典であった。だから騎士団員も戦士としての騎士などではなく、王侯貴族である。
 こういった世俗騎士団には他にハンガリーのドラゴン騎士団というのもあったが、こちらは一代限りで消滅してしまった。また、聖アヌンツィアータ騎士団はルネサンスの頃にサヴォイアの栄典として吸収され、他の世俗騎士団と同じような存在となった。


 これらの騎士団は、多くが今も存続し、活動している。

 テンプル騎士団はフランスでは壊滅したものの、ポルトガルで生き残り、今でもポルトガル大統領が騎士団長を務めている。
 聖ヨハネ騎士団は前述の通り今でも国連オブザーバーとして紛争地帯での医療活動に従事している。
 ドイツ騎士団は領土を失ったあとハプスブルク家のオーストリアに根拠を置き、今でも聖ヨハネ騎士団ほどではないが、同じように福祉活動をしている。
 聖ラザロ騎士団は、その後は世俗騎士団と同じように王侯貴族の名士クラブとして存続している。

 ガーター騎士団は今でも大英帝国の栄典として高名である。
 金羊毛騎士団はブルゴーニュからオーストリアのハプスブルク家に相続され、その後スペイン系とオーストリア系に分かれて存続している。
 前述の通りこれらは栄典であり勲章である。オーストリア系金羊毛騎士団はカトリック教徒限定ではあるが、これらの騎士団員の地位は各国の君主や元首に授与されている。ガーター騎士と金羊毛騎士の地位は、それぞれ英国王室やスペイン王室から日本の天皇にも送られている。天皇というのは騎士団員なのである。
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ファンタジー世界のペガサスナイト [ファンタジー世界考察]

 結論から申し上げると、ファンタジー世界にペガサスナイトはほぼ存在しない。正確にいうと存在できない。存在してはいけない。

 これはただの一発ネタで前から書きたかったのだけれど、まあ特に中身のある記事ではない。

 どういうことかというと「ペガサスナイト」は任天堂に商標登録されているので存在するわけにいかない。しかるべく手続きすれば構わないのかもしれないが。この件はファイアーエムブレムの開発者が独立したあと作ったゲームで「ペガサスナイト」を登場させたら裁判を起こされて負けたことがある。
 類似のゲームではペガサスライダーなどと呼称されたりする。だからペガサスキャヴァリアとかペガサスリッターとかペガサスシュヴァリエなどは大丈夫なのだろう。ペガススナイトとかペガソスナイトはわからないが。

 ファンタジーでの似たような事案に「ホビット」がある。ホビットはトールキンが作った単語なので著作権的に使われない。似たような「小人」「矮人」はハーフリングとかグラスランナーなどオリジナルの呼称が与えられる。エルフとかドワーフはゲルマンの神話や伝承に登場するので問題ない。

 この手の版権というとコナミが悪名名高い。一時期コナミが「ホワイトベース」などの自社とは関係のない商標登録を多量に申請していたのは有名だ。コナミは他にも多くのIPを持ちながら開発を放棄して死蔵したり、ゲーム関連の特許を持っていてなおかつゲーム開発から撤退したりとゲーマーから憎まれている。
 他にもゲーム関連の特許は色々あるが、全体的に見るとゲームにおける特許というのは、知的財産であるし守られないといけなのは確かなのだが、ゲーム業界全体の発展やユーザーの利便性からするとどちらかというと不便さを増しているように思える。例えば、ギャルゲーユーザーが望むであろう合成音声で自分の名前を呼んでくれるというのはどこかの会社(コナミの気がする)が特許を持っているから他のゲーム会社が使えないとか。

 まあこの話はただの一発ネタなので特にこれ以上書くつもりもない。


 今日はクリスマスイヴである。いわずもがな日本では一番セックスの件数が多い日である。

 ガチャゲームでもクリスマス衣装は課金のネタとして重要である。どのガチャゲームもクリスマスコスチュームのキャラを用意している。しかしまあ世の人々はこんなクリスマスコスチュームで喜んで金をつぎ込むのだから安いものである。

 クリスマスコスチュームで多そうなのが、サンタクロース風の衣装で、赤い服に白いふわふわをつけたものである。しかしこんなものの何が嬉しいのかは私にはわからない。こんな格好するのはせいぜいがクリスマスケーキを売るアルバイトかクリスマスにピザを配るお兄さんくらいであろう。キャラのこんな格好見ても飲み会の余興みたいにしか見えない。何が楽しいのか。
 ただグラブルの一部キャラなどは、さすがに開発費があっていいデザイナーがいるからなのか、白を基調としたクリスマスカラーのコートなど着ており、欲しいと思わせるものであった。

 私はこの手の季節コスチュームにはあまり興味を持てないようだ。
 他のブログでも書いたけれど、近年導入が進んでいるイースター衣装などは明らかにただの珍奇な服装でしかない。せいぜいが十二大戦の卯の戦士みたいで、というか卯の戦士を思わせてむしろ気持ち悪い。ハロウィンも魔女コスチュームと思えばまだマシなのだが、特別に興はそそられない。この辺の海外から無理やり輸入させたイベントにはそもそもがなんの思い入れもない。
 季節イベントで多少興味を持てるのは、ジューンブライドとか正月の晴れ着あたりだろうか。といっても花嫁という概念に興味はないのでジューンブライドといってもただの白いドレスだし、晴れ着も私は振り袖がいまいち好きにもなれない。ややマイナーなものだと桃の節句があり、これは興味がある。和服でも振り袖はいまいち好きではないのだが、女房装束は好きである。正月だと巫女服もありえるが、巫女服は好きである。ただ、近年巫女服もいたずらに肩に切れ込みなどをいれてセコく肌露出を増やそうとしているものなどがあり、これは嫌いである。ちなみに近年のフリルつきの丈の短い和服なども嫌いである。
 季節イベントとしては水着があるが、これはやはり興味はある。いたずらに露出を増やすのはうんざりするのだが、水着はまた別であろう。特に貧乳娘がビキニを着るのはとても素晴らしい。もちろんこれも世界観などにもよるのだが。


 さて。本題である。といってもペガサスナイトの話は枕で終わりなのだが。

 ここ数日クソゲーのレビューを読んでいたずらに時間を費やしている。クソゲーのレビューというのは読んでいてそれこそ寝食を忘れるくらいに楽しい。こういうのは私の品性が下劣だからなのか、とも思ったけれど、しかし世の中にはゴールデンラズベリー賞とかイグノーベル賞とかダーウィン賞とかあるので普遍的な興味であり品性下劣などと思う必要もなさそうだ。

 ここで着目したいのが二つの記事である。「ファイナルファンタジーXIII」と「テイルズオブゼスティリア」である。テイルズオブゼスティリアは立派なクソゲーだがファイナルファンタジーXIIIはクソゲーとはされていない。ただ、JRPGを象徴するゲームという感じがしたのでここでネタにしたい。

 ファイナルファンタジーXIIIは、容量の七割、それも数十GB単位の量でストレージを占めるとにかく長いムービーと終盤以外本当に何一つ行動の自由のない一本道シナリオで知られる。もちろんムービーはファイナルファンタジーでおなじみの気持ち悪い美男美女である。どちらもいかにもJRPGといった感じである。
 更にその一本道シナリオも気持ち悪い。要するに世界の危機なのだけれど、それに対して主人公がなんの考えもなく突っ込んで何故か奇跡が起きて解決するといういかにもJRPG的な安易極まりないくだらない三文芝居のデウスエクスマキナである。
 ファイナルファンタジーというのも、PSにプラットフォームを移してからムービー重視になり、気持ち悪い宗教的な独自世界観を全面に打ち出すようになったのだが、そのわけの分からぬ宗教世界は気持ち悪いとしかいえない。映画版ファイナルファンタジーで大コケしたくせに。

 テイルズオブゼスティリアは満場一致のクソゲーであった。
 何が悪いといってシナリオである。特にこのゲームのシナリオはテロリズムを賛美するというどうしようもないくだらない内容である。正義のためなら暗殺というテロリズム、人殺しは賞賛されるべきという内容なのである。まるでイスラム過激派である。更にいうなら、近年の「正義なら何をしても許される」という社会的風潮にも合致する。例えばとある自動車事故に関してそれとは無関係の企業を容疑者の親がやっている会社としてネットに晒して一日百件とか「抗議の電話」をするような社会的風潮と、テイルズオブゼスティリアのシナリオは思想発想の点で同じ流れなのである。社会的影響力のある大手ゲーム会社がテロリズムから名誉毀損まで賛美しているのだからどうしようもない。
 またテイルズオブゼスティリアはメアリー・スーと逆メアリー・スーでも有名である。メアリー・スーとは何かというとキャラの依怙贔屓である。逆メアリー・スーはその逆で特定のキャラをやたら冷遇することである。
 メアリー・スーはこのゲームの暗殺ギルドの頭であるキャラであるロゼである。暗殺というテロリズムを賛美するこのゲームのテーマに合致しているともいえる。ただこのゲームの場合プロデューサーがこのキャラを好きであると高言するのみならず担当した女性声優にも賞賛だけではない感情を表しており大変気持ち悪い。あとこのキャラは自分に似ているみたいなことを述べているのだが、テロリストで逆メアリー・スーのいじめをしたりするキャラを好きだとか自分に似ているとかいうのも気持ち悪い。
 逆メアリー・スーもいる。アリーシャというキャラなのだが、当初、テイルズオブゼスティリアでは宣伝段階でアリーシャを「重要なキャラ」「ヒロイン」と謳っていた。あるいはそうであると勘違いさせるような喧伝をしていた。ところが蓋をあけると、実質メインヒロインはプロデューサーお気に入りのロゼであり、アリーシャはパーティ途中離脱するし、さらには扱いがひどく主人公やロゼを筆頭に多方面の登場人物からいじめを受けている。更にはプロデューサーは、後のインタビューで、彼女がメインヒロインとされたのはユーザーの勝手な勘違いだといい切り、各種メディアにもアリーシャに冠されたヒロインという単語を削除するよう手を回した。
 あまりにこのプロデューサーの仕儀がひどく、ユーザーからはもう二度とこのプロデューサーにゲームを作らせないでくれ、という署名活動が5000人分ほど集まったという。彼は結局退社したのだが、今度はスクエニ系列のゲーム開発会社のトップになっている。
 おそらくは元々逆メアリー・スーのアリーシャがメインヒロインになる予定だったのか、彼女はフィギュアすら作られている。
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 アルターのフィギュアだけあってなかなか良い造形で、再販までされている。私もこれを見てほしくなったのだが、残念ながら市場価格はプレミアがついており、購入の機会はなさそうだ。中の人も茅野愛衣だし、不遇キャラということでなんとなく愛着めいたものも覚えるのだが、プレミア価格では手を出すのが厳しい。

 どちらもJRPG的なゲームであり、それでいてそのJRPG的な部分で大変くだらない出来になっているように思えてならない。特になんの考えもない主人公が情熱のまま突っ走るとなんかうまいこと奇跡が起きてなんとかなるとか、正義のためならテロリズムを賛美するとか、くだらない。
 洋ゲーなどは確かにむしろ暗殺テロリスト組織などが主人公の所属組織になったりもするけれど、しかし正義のためならテロリズムを賛美する内容になったりはしていない。

 私がソードワールド2.0を嫌いなのも、ラノベ的なのが嫌いというよりむしろJRPG的なのが嫌いなのだと思えてきた。まあ、どちらも似たようなものだとも思えるけれど。


 しかしクソゲーオブザイヤーなどを見ていると、明らかに常連企業というものがある。例えばシステムソフトアルファーとかがそうである。バンダイナムコなどもよく見かけるが、しかしバンダイナムコはゲームの総数も多く、いいゲームも出している。それに比べてシステムソフトアルファーなどは見ているとクソゲーしか出していない。あと一分野に限るのなら、コーエーも本来の得意ジャンルであるはずの歴史シミュレーションでは、最近だと信長の野望創造を除くとほぼほぼ否定的な扱いをされている。
 システムソフトアルファーは傍目から見ていると本当に謎で、ここまで出すゲームがすべてクソゲーな会社もないだろうに、なぜ今まで潰れないで存続できているのか、本当にわからない。私の中ではゲーム業界の謎である。

 クソゲーというのは、よくいわれるけれど、なんでこれがOK出たんだと思えるようなものが多い。「修羅の国」ことエロゲーであれば、もうデバッグするのがせいぜいで、どうしようもないものが散発するのはわかるのだが、大手ゲーム会社でも、テイルズオブゼスティリアのようなクソゲーを生み出す。
 例えばこれが書籍であれば、編集がチェックするので、小説家がひどい作品を書いてもとりあげられない。すべての場合ではないにせよ。山田悠介の処女作はひどいといわれたけれど、あれは編集部のチェックの入らない、一種の自費出版であったという。
 しかしゲームの場合そういったチェック機構がない。プロデューサーとディレクターという職掌の違いはあるが別に編集と作家のようなチェック体制というわけでもない。だいたいテイルズオブゼスティリアみたいにプロデューサーが率先してクソゲーを作ることも多い。プロデューサーの上にも上司はいるが、幾つかのクソゲーはゲーム会社の社長からしてその出来を賛美することもある。

 だいたい、シナリオライターにせよプロデューサーにせよ特にシナリオ面でテストされたわけではないこともある。小説家であれば、ケースによるけれど、新人賞などといったわかりやすい関門がある。ゲームのシナリオライターも参考作品の提出などはあるだろうが、関門は曖昧だ。ましてやプロデューサーだのディレクターだの、シナリオ作家として選ばれたわけでもない。
 別にそれが一概に悪いわけでもない。例えば、俺の屍を越えてゆけやリンダキューブで知られる桝田省治などは元々はハドソンに出入りする広告代理店のサラリーマンだった。今では作家としても活躍している。

 とはいえこういったクソゲーの事例を見ていると何かしらチェック機構が必要にも思えてくる。というか、テイルズオブゼスティリアのプロデューサーなど「こいつに二度とゲーム作らせるな」などという署名活動まで起きているのに何故まだゲーム業界に居られるのか謎ですらある。政治家とかならともかく、ゲームなんて売上がすべてで、ユーザーに嫌われるようなゲーム作家に何故居場所を与えるのかと思える。
 まあ、テイルズオブゼスティリアはアリーシャというキャラとフィギュアの存在を知ることができたのでそれはよかった。
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ソードワールドの墓碑 [TRPG]

 このブログは相変わらずそこそこ検索にひっかかるらしい。以前は中世ヨーロッパの識字率とか貨幣の価値がそこそこ人気だった。最近はファンタジー世界の飲み物という記事でたどり着くことが多いようだ。しかしなんども申し上げているようにこのブログは説明文にもソースはないと書いているし、私の胡乱な知識に基づいた下調べもしていない記事であるから、こうも検索でたどり着かれても恐縮至極である。そのうち多少真面目にここの記事をまとめてWikiにでもしておこうと思って中世ヨーロッパ風ファンタジー世界Wikiを作っているのだが遅々として進まない。

 うさんくさい記憶だけで書いた記事として、アロンダイトのことがある。このブログで二回に亘って、アロンダイトなど新紀元社の本にしか出てこない、捏造の疑いありなどと書いた気がする。しかし見直してみたら、アロンダイトはちゃんとヨーロッパ系の資料でも存在した。
 アロンダイトは今ではサー・ランスロットの剣として定着している。しかしアロンダイトという名前の初出は14世紀の叙事詩であるようで、少なくともオリジナルのランスロットが登場する騎士叙事詩には出てこない。しかも14世紀のものにしても持ち主はなんとなく綴りがランスロットに似ている人物だが、ランスロット本人とは書かれていない。
 ただ19世紀の通俗的な種本、当時の新紀元社的な本にはアロンダイトはランスロットの剣と書かれている。ただこの本は当時の新紀元社のような本なので、信憑性とかが高いものではなく、叙事詩というわけでもないし、資料とした叙事詩が特にあるわけでもないらしい。
 なのでアロンダイトは新紀元社の捏造というのは誤りであったが、しかし出自不明の存在であることは変わりない。

 ちょっと調べると新紀元社は他にもやらかしている。しかもそれがウィキペディアの誤表記にすらつながっている。
 例えばフランベルジュと呼ばれる剣があるのだが、そのウィキペディアの項目名、ページ名はフランベルジ「ェ」となっている。これは新紀元社のせいである。新紀元社の本にフランベルジェという誤った表記があったからウィキペディアで最初に項目立てた人間が間違う羽目になった。ちなみに私もフランベルジェで覚えていてもよさそうだがフランス語を多少知っていればフランベルジュとわかることだからなのかフランベルジュで覚えている。
 同じことはツヴァイヘンダーにもある。つまり新紀元社の本にはすべてツヴァイ「ハ」ンダーとある。しかしドイツ語の綴りは"Zweihänder"なのでツヴァイヘンダーである。ウィキペディアの項目も表記もちゃんとツヴァイヘンダーとなっている。しかし一応、新紀元社のせいで日本ではツヴァイハンダーと呼ばれているみたいな言及がある。
 ただまあこのレベルの誤表記はドイツ語のアウクスブルクをアウグスブルクと書いたりアウグスブルグと書いたりとありがちではある。

 これらについて新紀元社をいたずらに責めるのも酷ではあろう。こういった間違いはありえないことではない。だいたい、かの大プリニウス先生ですらマルティコラスをマンティコラスとスペルミスしてそれが後世まで残っている。
 とはいえ誤りは誤りであり、それが新紀元社に由来するのも確かだ。
 ついでにいうなら自社のラノベ単行本レーベルで異世界だの転生だの出版している新紀元社には愛想が尽きたので同情する気がなくなった。新紀元社は日本のファンタジー創成期から大きな存在の出版社ではあり、その功績を認めるのは同感なのだが、異世界転生などに手を染めるとは。
 まあ風俗店のチラシみたいな装丁のアルファポリスよりはマシな装丁であったが。何故ああもアルファポリスの本は装丁が下品なのか本当に謎である。


 先日記事が途中で全部吹き飛んでやる気がなくなったのだが、それを復活させようかなとかちょっと考えたりしている。

 何を書いていたかというと天野喜孝のイラストについて書いていた。天野喜孝のイラストというと、個人的には、エルリック・サーガと、ファイナルファンタジーと、ソードワールドであった。

 エルリック・サーガは、日本で出版された時にイラストを天野喜孝が担当したのだが、作者のマイクル・ムアコックはこれをいたくお気に召して、英語版はじめとするすべてのエルリック・サーガのイラストを天野喜孝版にさせたらしい。ちなみに翻訳を担当したのは後にグループSNEを立ち上げる安田均である。

 ファイナルファンタジーについては特に語ることもないだろう。もっとも近年のファイナルファンタジーといえば萌えとリアルの不気味の谷にあるような気持ち悪い顔と延々と馬鹿みたいに長い容量を食いまくるムービーと一本道なだけのシステムとわけの分からぬ造語にまみれた気持ち悪いシナリオばかりが有名で、天野喜孝的なものは一掃されたように思える。

 ソードワールド無印もキービジュアルが天野喜孝であった。安田均のつながりでそうなったのかもしれない。先日私が古本で購入した安田均のファンタジーファイルシリーズも天野喜孝がメインビジュアルであった。
 ソードワールド無印は、そもそも萌えビジュアルが一世を風靡どころか確立も定着もしていない時代のものであったから、コアになる書籍には一切といっていいほど萌え絵はない。ラノベ的な萌えはない。ラノベ自体この頃はまだソードワールド無印との関係が深いロードス島戦記が世に出はじめた頃であり、ラノベの存在自体がまさに黎明期であった。
 それに比べるとソードワールド2.0などは実にラノベ的であり、イラストは当然萌え絵だし、ゲームの要素にもラノベ臭が芬々としている。私はソードワールド2.0が大嫌いなのだが、しかし何故嫌いなのかはもう忘れてしまった。今更その理由を省みる気もない。その一つにあまりにラノベ的な要素が強いというのはあった。別にラノベ的なものをすべて否定する気もなく、私が遊んでいたソードワールド無印でも私が描いたPCのキャラ絵は萌えイラストだったけれど、ソードワールド2.0が嫌いなのはむしろルールとかアイテムとかのラノベ感であった。

 ファイナルファンタジーにしてもソードワールドにしても大昔は萌えの欠片もなく、イラストは「硬派」な天野喜孝であった。ドラゴンクエストの鳥山明のような少年向けともまた違う。いわば大人向けともいえよう。そう、だいたいそもそもTRPGなどというのは大人がやるものであったからルールブックなども価格が高かった。ファミコンにしたって高価なものであり、とても子供向けとはいえない価格帯のものである。だから昔はファイナルファンタジーなどはおそらく大人が遊ぶものと想定して作られていたのかもしれない。

 ソードワールド無印というのは、ベーシックなファンタジー世界を元にしたものであり、敢えていうならソードワールド自体の独自性というのは低かった。少なくとも当時の「典型的」中世ヨーロッパ風ファンタジー世界を描いたものであり、余計な要素は少なかった。そしてそれは欠点でもなんでもなかった。
 ソードワールド2.0はそれとは違う。正統派中世ヨーロッパ風ファンタジー世界でもなんでもない。ソードワールド2.0という特殊な世界観に基づいたワールドであった。要するに自己主張が強かった。だから私にとって実に不要であった。私はベーシックなファンタジー世界で遊びたかったのだ。

 別にソードワールド2.0のことを私が嫌いでも本来なら特に問題のあることではない。合わないファンタジーなど幾らでもあろう。しかしソードワールド2.0は展開にあたってソードワールド無印を抹殺にかかった。ソードワールド2.0のあとソードワールド無印はまったくなんのサポートもされず絶版となった。ソードワールド無印をやっていた人間は問答無用でソードワールド2.0をやれといわんばかりであった。しかしソードワールド無印とソードワールド2.0は基本ルールが共通なだけで世界観は全然別物なのだ。
 あるいは安田均、水野良、清松みゆきといったグループSNEの重鎮が「引退」するのでもうソードワールド無印のサポートをしかねるということだったのだろうか。だがそこまで個人の力量に依存していたとも思えない。単にソードワールド無印の人気が落ちて刷新を図りたかったということなのだろう。だがそれにしてもソードワールド2.0は嫌いである。何故グループSNEはそこまでソードワールド無印を抹殺にかかったのか。2.0と並行展開できなかったのか。そう思ってしまう。
 これは単に無印を懐古しているというわけでもない。2.0と無印は世界観の方向性が違うのだ。2.0は無印の代替物になりようがないのだ。


 先日書いたのはもっと天野喜孝を賞賛する内容だった気もするのだが、しかしソードワールド2.0への恨み節みたいになってしまった。
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色々書いたけれど消えて疲れた [ファンタジー世界考察]

 今日は特にテーマを決めないで細かなつまらない話でもしてみたい。本当は何かあった気がするのだが忘れてしまった。枕のどうでもいい話も忘れてしまった……のだが書いていたら思い出した。


 前から書いているとおり私は「異世界」「転生」を蛇蝎のごとく嫌っている。本屋でも特別「異世界」「転生」「チート」などの単語が目立つ棚は平積みのも目に入らないように移動経路も視線も苦心惨憺して避けるようにしている。
 ところが最近人との話の中で出てきた本がどうやらラノベ系単行本であるらしく、その本が少し気になったのだが、かといってアマゾンで済ませるのも一応表紙だけは確認したけれど、私はサヨクであり反グローバリズムでありトランプ大統領と同じくアマゾンが嫌いなのでアマゾンで購入したくもない、ということで頑張って「異世界」「転生」などの単語が並ぶラノベ系単行本のコーナーに行ってきた。

 そこでわかったのだが、たしかに私は「異世界」「転生」「チート」などの単語が反吐が出るほど嫌いである。しかしそれ以上に、どうやら本の装丁、デザインが気に食わないのだ。特にアルファポリスなど新興と思われる出版社に顕著なようなのだが、はっきりいってデザインが下品なのである。特にフォントが実にチープでキッチュで薄汚くうんざりさせられるのである。
 「異世界」「転生」という単語だけでも不快なのだが、それをより一層亢進させているのが下品なフォントの装丁なのである。背表紙だけでうんざりする理由はこれである。背表紙のフォントからして吐き気がする安っぽさなのだ。
 やはり見てみると新興と思われる小規模そうな出版社ほどフォントは薄汚い。ケチなスーパーのPOPあるいはパチンコ屋的な場末感の漂うフォントなのだ。角川などはまだ品を感じる。

 もう一つ発見があった。あの新紀元社がラノベ単行本のノベルレーベルを出しているのだ。しかもタイトルには「異世界」「転生」などの単語が踊る。新紀元社には失望した。


 と、ここまで枕を書いた後でスカイプチャットをはじめて日をまたいでその後今日になって続きを延々と数千字書いたのだがこのブログでエラーが起きて全部消えてしまったのでもう書くのやめた。
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ゲーマーの区分 [TRPG]

 ここ最近スマホではRPGを自称するゲームが人気である。これはゲームシステム的にはビジュアルノベルとRPG風ターンバトルの合いの子である。ビジュアルノベルというのは、キャラの立ち絵があって、シナリオが進んでいくだけのことである。選択肢も一応あるが、95%以上のゲームはどの選択肢を選んでも一部の文章が変わるだけで、ほぼ完全に選択肢のない一本道シナリオである。シナリオの内容はたまに面白いのもあるが、大抵は安いラノベであり見るべきものはほとんどない。主人公のキャラメイクはほぼ存在せず、男女の性別が選べればまだ良心的である。これらが自らをRPGを称する根拠はJRPGでおなじみのターン制バトルをシナリオの途中に差し挟むという点だけである。しかし大抵の場合バトルは意味もなく挟まれたものにすぎない。一部のゲームではそれでも「敵が来る」などというセリフがあってそれはまだましな方であり、今や大抵のゲームではそんなセリフすらなくシナリオの最低単位につき一回RPG風ターンバトルが挟まれる。基本的に行動力というポイントが設定されており、それを消費することで一定の長さのシナリオを読め、それにつきたいてい一回バトルがある。行動力はシナリオを読み進めるとなくなり、時間経過で回復するが、有料アイテムで行動力を回復させることもできる。昔はここが課金の主要ポイントであったが、そういったゲームは今では主に女性向きのものばかりである。バトルはそれとは別の課金システムとして存在したが、現在ではこちらが主要な課金のシステムになっている。
 これのどこがRPGなのかはまったくもってよくわからないものではある。これらがRPGを自称する根拠は、繰り返しになるが、コンピュータRPG風ターンバトルだけなのである。
 元来のRPGとは、ロールプレイングゲームであり、つまり主人公の役割を演じるお芝居のようなものだったのだ。TRPGの大雑把な説明としてなりきりチャットのようなもの、というのがあり、これをするとTRPGゲーマーからは怒られるのだが、しかしまあ、RPGがなんだったのかすっかり忘れ去られた現代にあってはこの乱暴な説明ですらわからなくもない。
 一応このスマホRPGがRPGを自称していられるのは、これらのゲームがシナリオ的に主人公に自己投影して遊ぶものだという最低限のコンピュータRPGの原則をクリアしていることになっているからだが、しかし私のような天邪鬼はこれらのラノベ的主人公にたいして感情移入できないのである。なにせ性別すら多くの場合選べないのだ。


 さて。今日は別にスマホRPGに文句をつけるのはおまけなのであった。

 ゲーマーというのはプレイスタイルによって幾つかの種類に分かれるとされる。
 有名なのはカードゲームにおけるゲーマー区分、スパイク、ティミー、ジョニーである。

 スパイクは、とにかく勝つことだけを考える。ゲームのすべては勝つためである。それ以外は何も考えない。いかに効率よく勝利をおさめるか。それだけを考えるのがスパイクである。傍から見ると何が面白いんだと思う人がいるかもしれないが、合理的効率というのは考えているだけでも面白いという数学的快楽があるのだ。端的に言ってゲームというのはボタンを押して数字が増えるだけでも面白い。
 ティミーは、勝つ過程そのものを楽しむ。派手な大技をぶちかましたり、華麗な勝利を収めたりというパフォーマンス的な楽しみをゲームに見出している。思うに、ティミーは、自分の勝ちたいように勝ちたいのであり、それ以外の勝ち方では面白くないのであろう。
 ジョニーとは、ゲームのルールの抜け穴を探すのが好きなタイプであろう。意外な大技、ありえないと思われてきた勝ち方、それらを探求するのが好きなのである。仔細は後述するが、囲碁AIは定石を無視することで人間相手に勝利を収めたが、それと似ていて、意外な勝ち方を求める。
 当たり前だけれどこの中で一番強いのはスパイクである。なにせ勝つことしか考えていない。
 それにゲームというものの成り立ちを考えるのならスパイクはゲーマーの基本でもあろう。ゲームの起源は、将棋・チェス・囲碁、プレイングカード(トランプ)、兵棋演習の三つだと思うけれど、ゲームがプリミティヴになればなるほどゲーマーの姿はスパイク以外のものではなくなる。詰将棋などというものがそれを示している。
 最強のスパイクとは申すまでもなくAIである。AIは派手に勝ちたいとか自分の理想通り勝ちたいとか思うわけはないのである。その中で囲碁AIがとった行動は興味深い。囲碁には二千年かけて作り上げてきた定石というものがある。定石というのは定石という言葉の語源となったくらいのものである。しかし囲碁AIは人類が二千年かけて営々と築き上げてきた定石を一蹴し無視して勝ったのである。

 同じカードゲームではもう一つのゲーマーの区分がある。ヴォーソスとメルヴィンである。

 ヴォーソスは、ゲームそのものだけではなく、ゲームの、カードゲームならデザイン、その背景世界、バックストーリー、そういったものに価値の重きを置く。
 メルヴィンはゲームのルール、カードゲームならゲームとしての価値、カードの強さ、そういったものに価値の重きを置く。

 ヴォーソスなどはどちらかというと「現代的な」楽しみ方の基準に思える。チェスの材質だとか碁盤の木材だとかに芸術的価値はあるにしても、チェスをプレイしながらクイーンは女王様だとかキャラ性を付加して考えたりはしまい。トランプのどのカードがシャルルマーニュであるとか気にしてプレイしたりもしない。タロの大アルカナなどは解釈のしがいはあるがあくまでそれは占いであり、カードゲームとして遊ぶなら別である。タロの大アルカナも昔はプレイングカードとして存在した。しかるに「最近の」カードゲームはドラゴンだとかエルフだとかデザインされていて、その背景世界まで設定されている。とはいえ前近代の人間もヴォーソス的な楽しみがなかったというわけでもあるまい。チェスにせよ囲碁にせよ「永遠」や「神々の永遠の戦い」の比喩としても使われている。

 思うに、ヴォーソスとメルヴィンの方が今の時代では汎用性のある区分に思える。私の中では、ヴォーソスとメルヴィンという名前を知る前からなんとなく付加価値的楽しみとか合理主義的楽しみとかなんとなく分けていた。

 TRPGなどは私にとってはそうなのだが、どちらかというとほとんど純粋にヴォーソス的なゲームだと思っている。プレイヤーは別にGMに勝ちたいとか思ってプレイしないし、GMがプレイヤーをこてんぱんに叩きのめそうとしてプレイなどしてもろくなプレイングにならない。もちろんプレイヤーはプレイヤーキャラクターを通じてGMの裏をかくようなプレイングをするのは楽しいだろうし、高レベルPCともなればGMも全力で挑む必要がある。かといってそこはバランスであり、極論すればかけだし冒険者PTのシナリオにドラゴンが出てきてPC皆殺しにしても何一つ楽しくない。私がTRPGをなりチャの延長線上にあるとかなんとはなく思ったりもするのもそういった発想であろう。それに私は運良くなのかPCを全力で殺しに来るようなGMのプレイングにもあたったことがない。

 コンピュータゲームだと、マルチプレイなどはメルヴィン的なスタイルが表に出やすい。マルチプレイというのは単純な強弱と勝敗の世界である。だからこそ、競争原理が働くからこそ、強くなるために金をかけたくなる。他のプレイヤーより順位を上げるために、ランキングの報酬を得るために金をかけて強化したくなる。なので最近のゲームは、マルチプレイに重点を置いているのだ。他のプレイヤーに勝つためならプレイヤーはより財布の紐をゆるめてくれる。
 これがシングルプレイなら、競争原理は基本的に働かない。マイペースで遊べる。最近はRTAなどという、シングルプレイでいかに素早くクリアするかタイムを競う動画も有名になっているが、しかしこれはシングルプレイの本質的な遊びとはあまり関係ない。

 私などは基本的にヴォーソスである。シヴィライゼーションでも、ハーツオブアイアンでも、私は理想の国家建設、壮大な文明叙事詩、そのために遊んでいるようなのである。
 たとえばシヴィライゼーションではスパ帝と呼ばれる有名なプレイヤーがいて、難易度天帝でスパイ経済という攻略法で有名になったためスパ帝と名乗っている。彼は典型的スパイクであり、メルヴィンである。しかし私などは彼のプレイを参考にはするだろうが、彼のようなプレイをしたいわけではない。私は難易度皇子で自分の理想的国家建設が出来ればそれで満足なのであり、その過程に何かしらのストーリー的なものを見出しているのだ。

 だが私のようなプレイスタイルでは金はあまり落ちないだろう。勝利のために金を支払ったりしない。スパ帝氏なども金を支払わず勝利の法則などを見出すのかもしれないが、しかし彼の土俵に乗るなら金を払いたくもなるかもしれない。

 海外ではスターウォーズバトルフロント2のガチャの是非をきっかけにガチャに対して是非論が噴出しており、各国政府や各国自治体、政治家たちが次々とガチャに対して否定的な見解を示しはじめている。しかし我がジャパンにあっては、元々パチンコパチスロとかいう賭博が警察官僚を籠絡することによって横行していたりもするし、ガチャもソシャゲ業界がなにかしたのかしていないのかわからないがガチャについては、せいぜいがコンプガチャに絵合わせ適用をちらつかせたら自主規制された程度で、ガチャゲームは我が世の春を謳歌している。

 ただ、思うに日本のガチャは若干特殊性を持っているだろう。キャラ性である。つまり強さとはまた別の次元で特定のキャラクターに対してガチャを引きたがる。「人気キャラ」と「最強キャラ」が異なることが日本のガチャの錬金術である。これなどはまったくメルヴィンとしての楽しみなどなく、ヴォーソスとしての楽しみである。ここが日本のゲーム業界の特殊性であろう。

 私はシングルプレイ中心でヴォーソスとしてゲームを楽しんでいる、典型的日本型ゲームユーザーとは思える。しかしそれで射幸心を煽られて金を出すというのも乗り気になれない。だいたい、ガチャに数万もかけるのは、幾らヴォーソス的としても金がかかりすぎであり、費用対効果が悪すぎる。
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我が麗しのファンタジー世界 [ファンタジー世界考察]

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 こんなものが我が家に届いた。

 いや、自分で注文して金払ったのだから届いて当然なのだが。


 私は基本的に鬱病患者であり、精神的に衰弱しているのだけれど、たまには懐かしいものでも読んでみたらどうだろうかと思い立ってアマゾンは嫌いなのだがアマゾンで探してみた。さすがに新刊などとうに絶版なのだが、古本が1円とかであった。とりあえず三つ注文してみた。同じ古本屋で注文してまとめて届くのだから運送料安くならないかなと思ったのだがならなかった。
 しかしまあ届いて目の前にしてみると、懐かしいどころか、もう記憶の彼方に飛ばされてしまったらしく、あまり懐かしくもなかったような気がしないでもない。

 ロードス島戦記はライトノベル黎明期の作品であり、ラノベの基礎を築いた作品の一つでもある。
 めくってみたのだが、まあなんというか日本語書法の一部がめちゃくちゃである。具体的には、「」のつけかたが全部間違っている。ある意味すごい。水野良は生粋の小説家でもないしデビュー作に近いものだから仕方ないのだろうが、編集は何をやっていたんだという気もする。

 残りの二冊は安田均のファンタジー世界の知識本である。
 この手のファンタジー知識本としては新紀元社のものが有名で、日本のファンタジーは新紀元社抜きには語れず、新紀元社の功績はとても大きい。
 しかし前も書いたけれど、新紀元社の本には致命的な欠点がある。それは出典がいまいち不明なところである。たしかに新紀元社の本には資料にしたおびただしい文献の名前が書かれているのだが、いったいどこをどの本から参考にしたのかまったく書いていないのだ。
 だから、ウィキペディアなどにも出典として新紀元社の本はしばしば挙げられているのだが、しかしウィキペディアとしては新紀元社の本はその上の出典にたどり着くことができない。新紀元社の本はすべて「要高次出典」で無効なのである。
 これも前書いたけれど、新紀元社の本には「前科」がある。つまり、日本のファンタジーではサー・ランスロットの剣はアロンダイトということになっているのだけれど、しかしその出典は新紀元社の本だけであり、他の欧米の書籍には見当たらず、新紀元社がいったいなにを参考にしてアロンダイトなどという剣を持ち出してきたのかわからないのである。
 ちなみにウィキペディアの一部の項目では、安田均のこのシリーズの本を出典にしているのだけれど、こちらの本は新紀元社の本よりも問題であり、どんな本を参考にしたかすら書いていない。どうも書いてある内容からすると、せいぜいがD&Dのゲーム設定にしか過ぎないのではないかと思える。
 しかしまあ出典などと偉そうにいったところで、例えば澁澤龍彦などは名前もあるしそれなりに信頼されているかのような出典元にも見えるけれど、澁澤の著作はすべて澁澤の浩瀚な知識を元にしたエッセイにすぎない。だいたい古代に遡ってみたらみたで、大プリニウスなどは澁澤に適当にいい加減なことばかり書いているとかいわれている有様だったりもする。


 と、まあ、何一つ内容にろくに触れない文章になってしまった。

 ロードス島戦記の元の世界も、安田均のコレクションシリーズにしても、まだファンタジー黎明期の指環物語であるとか、D&Dであるとかの空漠たる純粋な欧風ファンタジー世界の空気を表していて、そこが大好きだったのである。どうもこういう空気を吸って育ったからか、最近のラノベファンタジーは好きになれない。もちろん最近のラノベファンタジーでも作者たちは同じ空気を吸ってきたはずの人も多いはずなのだが。なんというか、世界全体が世界創生の胡散臭さを残していて、泥臭くて、生活臭があって、よいのである。
 これらの初期的な、伝統的欧風ファンタジー世界の色を残した、安田均のコレクションシリーズを元にロードス島戦記と共に作られたのがソード・ワールド無印なのである。どうも私のファンタジー想像力はやはりソード・ワールドの影響が大きいらしい。
 だからラノベ的なソード・ワールド2.0が大嫌いで、他にも原因はあってそれは前の記事で書いたけれど、ともかくソード・ワールド2.0が嫌いなのだけれど、しかしソード・ワールド無印をグループSNEはこの世から根絶するつもりのようで、すべての書籍が絶版となっているのである。


 まあ、ここでろくに内容に触れていないのは、そもそも今日届いたばかりでたいして読んでいないからなのであるが。
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ファンタジー世界の死体 [ファンタジー世界考察]

 アクセス解析を見ると「ファンタジー世界 飲み物」で検索してきた人が多いらしいのだが、当該記事は今見返すと実に薄い内容であり、こんなものを見られても遺憾なところもあるのだが、もう一回改めて書くのも今は面倒だし、そのままにしてある。

 そもそも私は小説家になりたいはずなので、こんないい加減なブログの記事を書いていないで長編のプロットでも練るべきなのだが、やんぬるかな。


 さて。座間で猟奇的な連続殺人事件が起きた。

 ジャーナリストの青木理なぞはこの事件について述べるにあたって、こういった事件は必ず時代というものを反映しているなどと熱弁していたのだが、胡散臭いことである。宮台真司などはあっさりとたまにこういう事件は起きると述べており、まったくそうだと思う。歴史を紐解けば、少なくとも近代に入ると、断続的にこういった殺人が行われている。確かにこういった事件は社会の都市化が背景にあるし、それにこの事件に限定しても若者の虚無感と自殺願望であるとか承認欲求へのつけこみであるとかSNSであるとか現代性はあるだろうが、しかしいちいちこういった事件から現代社会の教訓めいたものを引き出すのはやはり胡散臭く、そういうのはゲーム脳だとかフィギュア萌え族だとかいったような出鱈目しか生み出さなかったのが歴史でもある。
 被害者の名前が公表されたり、被害者がいた大学が会見を行ったりもした。これもネットの一部では被害者の晒し上げだとかいわれている。ただ彼らのジンケンは加害者ばかり保護して被害者ガーとかいう論にも飽き飽きしたのでコメントしない。
 私が気になったのは被害者の名前に比較的「子」がつく名前が多かったことである。女性の名前として「子」は衰退しているといわれているが、若かった被害者の中で「子」のつく名前は多かった。また、会見を行った大学もお嬢様学校に分類される大学と思われる。
 つまり、この事件の被害者はどうも「育ちが良い」女性が多かったのではないかと思われるのだ。
 いや、それが気になったというだけであり、それ以上に特に分析するつもりもない。踏み込むにしてもあまりに材料がない。ただ、被害者は育ちのいい出身の女性が多かったのだろうな、そう思っただけのことなのだ。

 さて、これを機会にちょっと死体の話をする。

 座間の事件は確か九人殺された気がする。それだけの死体であるから、処理は大変であっただろう。人間の死体というのはかなり面倒なものである。なにせ女性でも50kg程度、男性なら60kg以上ある。放っておけばすぐに内臓が腐りはじめ強烈な臭いを発する。腐敗が進むとガスが発生し、死体は膨張する。そして大量の蛆虫なども発生するだろう。
 50kgの肉や内臓や脂肪である。生きている人間を見てもあまり実感はわかないが、死体となると大変な分量である。肉屋で500gの肉を見かけても結構な量であり、食べるのにもインパクトがある。それが100皿分である。どれだけ多いかわかるだろう。それを「この世から消し去る」必要がある。
 殺人というのは、殺すのは一瞬で済む。衝動的にでも殺せる。しかし死体の処理のほうが大変なのである。

 ちなみになんで死体の話などするのかというと、ファンタジー世界でも、というよりファンタジー世界の方が死体について馴染みがあり、接することも多いからである。

 何年か前の事件で、女性を殺したあと、その死体を細かく切り刻んで全部便所から流して処分したというのがあった。犯人はそのあと何食わぬ顔で被害者宅に集まったマスコミのインタヴューを受け平然と受け答えしていて、それがまた世人を騒がせたが、多分人を殺して死体を処分したあと同じようにマスコミにマイクを向けられたら誰だって同じような反応をするだろう。この手の殺人鬼を異常者呼ばわりすることは多いが、誰でも衝動的に誰かを殺してしまって、死体の処分などに直面したら似たようなことをするだろう。
 しかしまあ50kgの肉を切り刻んでトイレに流すのもえらい労力である。肉屋で50kgの肉を注文したら食べきれないのである。この死体を切り刻んで下水に流すというのは、漫画好きならわかるのだが、同じようなネタがゴルゴ13にあるのである。

 いずれにせよ死体というのは死んでしまえばただのものなのである。重要なのは、生きているものと違って、腐るということである。凄まじい臭いであるし、見るにも堪えられないだろう。


 ファンタジー世界では死体に接する機会は現実世界より遥かに多い。なんなら自分が殺人者になる可能性は、特に冒険者なんぞやっていれば高いだろう。そうでなくても、シティーアドベンチャーなどそうであるが、死体と接する機会は多い。死体を調べたりしないといけないかもしれない。場合によっては自分や仲間が死体になる。
 そういう時に困るのが死体の処分である。

 死体の処分というのは重要な問題である。単純にいってとても困るだろう。歴史的に見逃せないのは、歴史上、この死体の処理という面倒な仕事を、多くの人類社会では社会の一部階層に押し付けてきたことであり、そしてしばしば彼らは差別されたということである。

 それは措いておくとして、冒険者であれば様々な理由でそういった社会階層の被差別民に押し付けられないこともあるだろう。ある程度ありうるのが、旅先で死んだ仲間の埋葬などである。
 まず土葬するにしても穴を掘るのが大変である。人間の死体を埋めるのにはそれなりの体積が必要だ。そして腐ってしまう前に掘らなければならない。火葬ならどうか? そうも簡単にいかない。人間の死体を焼却して骨だけにするには相当な火力が必要になる。薪を集めるだけでも大変だ。死体をガソリンで燃やすのにだって相当な量のガソリンが必要なのだ。更に燃やす間、人間の肉が焼ける臭いを嗅がないといけない。


 私がこう死体に拘るのは、一つには都合のいいファンタジー世界が嫌いだからである。
 だいたい、最近の日本のファンタジー世界は死とかいうのを目に入らないようにさせようと必死なのである。確かに日本は伝統的に流血制限にうるさいのはあるが。

 例えば私が気に食わないのは、ダンまちなどに見られるような、モンスターなどを「殺す」とわけのわからぬ霧みたいなものになって雲散霧消する表現である。モンスターであれ殺せば血が出て死体の処理に困るものたるべしと思うのだ。どんな動物だって、死ねば血は流れて、死体が残り、死体は腐って臭いし蛆虫もわく。それに対する誤魔化しに苛立つ。都合が良すぎる。まあ一応ダンまちでも人間については殺せば血が出て死体も残るが。
 私は意地の悪い夢想を抱いており、いつの日か少年殺人者が、「アニメやテレビだと人を殺しても血が出ないしこんなに血が出るとは思わなかった」と供述してくれないか、と心の底で思っているのだ。そうすれば偽善的なつまらん流血への規制にもダメージになろう。

 それはさておき死体や流血の誤魔化しに何故苛立ちを覚えるのか。それは一つには、そういった死体の処理というものを、人類が歴史的に特定の社会階層に押し付け、その上で彼らを差別し続けてきたからである。つまり死体や流血の誤魔化しというのは言ってしまえば死体処理業への差別と根底が同じなのである。
 だから人間を物語にする以上、死体もちゃんと処理してほしいのである。


 この手の糞つまらないプチブル的な安っぽい正義は、ファンタジー世界といわずライトノベルなどではよく見かけることである。
 私は何故かソード・ワールド2.0の世界観が大嫌いでプレイしたくないのだが、それはソード・ワールド2.0の世界観がラノベ臭く、特に蛮族というものの設定にくだらない社会正義の胡散臭い偽善的差別助長的徴候を発見したからなのだが、しかしそれ以来ルールブックにも触れておらず、何が気に食わなかったのか自分でも忘れてしまった。
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