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我が麗しのファンタジー世界 [ファンタジー世界考察]

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 こんなものが我が家に届いた。

 いや、自分で注文して金払ったのだから届いて当然なのだが。


 私は基本的に鬱病患者であり、精神的に衰弱しているのだけれど、たまには懐かしいものでも読んでみたらどうだろうかと思い立ってアマゾンは嫌いなのだがアマゾンで探してみた。さすがに新刊などとうに絶版なのだが、古本が1円とかであった。とりあえず三つ注文してみた。同じ古本屋で注文してまとめて届くのだから運送料安くならないかなと思ったのだがならなかった。
 しかしまあ届いて目の前にしてみると、懐かしいどころか、もう記憶の彼方に飛ばされてしまったらしく、あまり懐かしくもなかったような気がしないでもない。

 ロードス島戦記はライトノベル黎明期の作品であり、ラノベの基礎を築いた作品の一つでもある。
 めくってみたのだが、まあなんというか日本語書法の一部がめちゃくちゃである。具体的には、「」のつけかたが全部間違っている。ある意味すごい。水野良は生粋の小説家でもないしデビュー作に近いものだから仕方ないのだろうが、編集は何をやっていたんだという気もする。

 残りの二冊は安田均のファンタジー世界の知識本である。
 この手のファンタジー知識本としては新紀元社のものが有名で、日本のファンタジーは新紀元社抜きには語れず、新紀元社の功績はとても大きい。
 しかし前も書いたけれど、新紀元社の本には致命的な欠点がある。それは出典がいまいち不明なところである。たしかに新紀元社の本には資料にしたおびただしい文献の名前が書かれているのだが、いったいどこをどの本から参考にしたのかまったく書いていないのだ。
 だから、ウィキペディアなどにも出典として新紀元社の本はしばしば挙げられているのだが、しかしウィキペディアとしては新紀元社の本はその上の出典にたどり着くことができない。新紀元社の本はすべて「要高次出典」で無効なのである。
 これも前書いたけれど、新紀元社の本には「前科」がある。つまり、日本のファンタジーではサー・ランスロットの剣はアロンダイトということになっているのだけれど、しかしその出典は新紀元社の本だけであり、他の欧米の書籍には見当たらず、新紀元社がいったいなにを参考にしてアロンダイトなどという剣を持ち出してきたのかわからないのである。
 ちなみにウィキペディアの一部の項目では、安田均のこのシリーズの本を出典にしているのだけれど、こちらの本は新紀元社の本よりも問題であり、どんな本を参考にしたかすら書いていない。どうも書いてある内容からすると、せいぜいがD&Dのゲーム設定にしか過ぎないのではないかと思える。
 しかしまあ出典などと偉そうにいったところで、例えば澁澤龍彦などは名前もあるしそれなりに信頼されているかのような出典元にも見えるけれど、澁澤の著作はすべて澁澤の浩瀚な知識を元にしたエッセイにすぎない。だいたい古代に遡ってみたらみたで、大プリニウスなどは澁澤に適当にいい加減なことばかり書いているとかいわれている有様だったりもする。


 と、まあ、何一つ内容にろくに触れない文章になってしまった。

 ロードス島戦記の元の世界も、安田均のコレクションシリーズにしても、まだファンタジー黎明期の指環物語であるとか、D&Dであるとかの空漠たる純粋な欧風ファンタジー世界の空気を表していて、そこが大好きだったのである。どうもこういう空気を吸って育ったからか、最近のラノベファンタジーは好きになれない。もちろん最近のラノベファンタジーでも作者たちは同じ空気を吸ってきたはずの人も多いはずなのだが。なんというか、世界全体が世界創生の胡散臭さを残していて、泥臭くて、生活臭があって、よいのである。
 これらの初期的な、伝統的欧風ファンタジー世界の色を残した、安田均のコレクションシリーズを元にロードス島戦記と共に作られたのがソード・ワールド無印なのである。どうも私のファンタジー想像力はやはりソード・ワールドの影響が大きいらしい。
 だからラノベ的なソード・ワールド2.0が大嫌いで、他にも原因はあってそれは前の記事で書いたけれど、ともかくソード・ワールド2.0が嫌いなのだけれど、しかしソード・ワールド無印をグループSNEはこの世から根絶するつもりのようで、すべての書籍が絶版となっているのである。


 まあ、ここでろくに内容に触れていないのは、そもそも今日届いたばかりでたいして読んでいないからなのであるが。
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ファンタジー世界の死体 [ファンタジー世界考察]

 アクセス解析を見ると「ファンタジー世界 飲み物」で検索してきた人が多いらしいのだが、当該記事は今見返すと実に薄い内容であり、こんなものを見られても遺憾なところもあるのだが、もう一回改めて書くのも今は面倒だし、そのままにしてある。

 そもそも私は小説家になりたいはずなので、こんないい加減なブログの記事を書いていないで長編のプロットでも練るべきなのだが、やんぬるかな。


 さて。座間で猟奇的な連続殺人事件が起きた。

 ジャーナリストの青木理なぞはこの事件について述べるにあたって、こういった事件は必ず時代というものを反映しているなどと熱弁していたのだが、胡散臭いことである。宮台真司などはあっさりとたまにこういう事件は起きると述べており、まったくそうだと思う。歴史を紐解けば、少なくとも近代に入ると、断続的にこういった殺人が行われている。確かにこういった事件は社会の都市化が背景にあるし、それにこの事件に限定しても若者の虚無感と自殺願望であるとか承認欲求へのつけこみであるとかSNSであるとか現代性はあるだろうが、しかしいちいちこういった事件から現代社会の教訓めいたものを引き出すのはやはり胡散臭く、そういうのはゲーム脳だとかフィギュア萌え族だとかいったような出鱈目しか生み出さなかったのが歴史でもある。
 被害者の名前が公表されたり、被害者がいた大学が会見を行ったりもした。これもネットの一部では被害者の晒し上げだとかいわれている。ただ彼らのジンケンは加害者ばかり保護して被害者ガーとかいう論にも飽き飽きしたのでコメントしない。
 私が気になったのは被害者の名前に比較的「子」がつく名前が多かったことである。女性の名前として「子」は衰退しているといわれているが、若かった被害者の中で「子」のつく名前は多かった。また、会見を行った大学もお嬢様学校に分類される大学と思われる。
 つまり、この事件の被害者はどうも「育ちが良い」女性が多かったのではないかと思われるのだ。
 いや、それが気になったというだけであり、それ以上に特に分析するつもりもない。踏み込むにしてもあまりに材料がない。ただ、被害者は育ちのいい出身の女性が多かったのだろうな、そう思っただけのことなのだ。

 さて、これを機会にちょっと死体の話をする。

 座間の事件は確か九人殺された気がする。それだけの死体であるから、処理は大変であっただろう。人間の死体というのはかなり面倒なものである。なにせ女性でも50kg程度、男性なら60kg以上ある。放っておけばすぐに内臓が腐りはじめ強烈な臭いを発する。腐敗が進むとガスが発生し、死体は膨張する。そして大量の蛆虫なども発生するだろう。
 50kgの肉や内臓や脂肪である。生きている人間を見てもあまり実感はわかないが、死体となると大変な分量である。肉屋で500gの肉を見かけても結構な量であり、食べるのにもインパクトがある。それが100皿分である。どれだけ多いかわかるだろう。それを「この世から消し去る」必要がある。
 殺人というのは、殺すのは一瞬で済む。衝動的にでも殺せる。しかし死体の処理のほうが大変なのである。

 ちなみになんで死体の話などするのかというと、ファンタジー世界でも、というよりファンタジー世界の方が死体について馴染みがあり、接することも多いからである。

 何年か前の事件で、女性を殺したあと、その死体を細かく切り刻んで全部便所から流して処分したというのがあった。犯人はそのあと何食わぬ顔で被害者宅に集まったマスコミのインタヴューを受け平然と受け答えしていて、それがまた世人を騒がせたが、多分人を殺して死体を処分したあと同じようにマスコミにマイクを向けられたら誰だって同じような反応をするだろう。この手の殺人鬼を異常者呼ばわりすることは多いが、誰でも衝動的に誰かを殺してしまって、死体の処分などに直面したら似たようなことをするだろう。
 しかしまあ50kgの肉を切り刻んでトイレに流すのもえらい労力である。肉屋で50kgの肉を注文したら食べきれないのである。この死体を切り刻んで下水に流すというのは、漫画好きならわかるのだが、同じようなネタがゴルゴ13にあるのである。

 いずれにせよ死体というのは死んでしまえばただのものなのである。重要なのは、生きているものと違って、腐るということである。凄まじい臭いであるし、見るにも堪えられないだろう。


 ファンタジー世界では死体に接する機会は現実世界より遥かに多い。なんなら自分が殺人者になる可能性は、特に冒険者なんぞやっていれば高いだろう。そうでなくても、シティーアドベンチャーなどそうであるが、死体と接する機会は多い。死体を調べたりしないといけないかもしれない。場合によっては自分や仲間が死体になる。
 そういう時に困るのが死体の処分である。

 死体の処分というのは重要な問題である。単純にいってとても困るだろう。歴史的に見逃せないのは、歴史上、この死体の処理という面倒な仕事を、多くの人類社会では社会の一部階層に押し付けてきたことであり、そしてしばしば彼らは差別されたということである。

 それは措いておくとして、冒険者であれば様々な理由でそういった社会階層の被差別民に押し付けられないこともあるだろう。ある程度ありうるのが、旅先で死んだ仲間の埋葬などである。
 まず土葬するにしても穴を掘るのが大変である。人間の死体を埋めるのにはそれなりの体積が必要だ。そして腐ってしまう前に掘らなければならない。火葬ならどうか? そうも簡単にいかない。人間の死体を焼却して骨だけにするには相当な火力が必要になる。薪を集めるだけでも大変だ。死体をガソリンで燃やすのにだって相当な量のガソリンが必要なのだ。更に燃やす間、人間の肉が焼ける臭いを嗅がないといけない。


 私がこう死体に拘るのは、一つには都合のいいファンタジー世界が嫌いだからである。
 だいたい、最近の日本のファンタジー世界は死とかいうのを目に入らないようにさせようと必死なのである。確かに日本は伝統的に流血制限にうるさいのはあるが。

 例えば私が気に食わないのは、ダンまちなどに見られるような、モンスターなどを「殺す」とわけのわからぬ霧みたいなものになって雲散霧消する表現である。モンスターであれ殺せば血が出て死体の処理に困るものたるべしと思うのだ。どんな動物だって、死ねば血は流れて、死体が残り、死体は腐って臭いし蛆虫もわく。それに対する誤魔化しに苛立つ。都合が良すぎる。まあ一応ダンまちでも人間については殺せば血が出て死体も残るが。
 私は意地の悪い夢想を抱いており、いつの日か少年殺人者が、「アニメやテレビだと人を殺しても血が出ないしこんなに血が出るとは思わなかった」と供述してくれないか、と心の底で思っているのだ。そうすれば偽善的なつまらん流血への規制にもダメージになろう。

 それはさておき死体や流血の誤魔化しに何故苛立ちを覚えるのか。それは一つには、そういった死体の処理というものを、人類が歴史的に特定の社会階層に押し付け、その上で彼らを差別し続けてきたからである。つまり死体や流血の誤魔化しというのは言ってしまえば死体処理業への差別と根底が同じなのである。
 だから人間を物語にする以上、死体もちゃんと処理してほしいのである。


 この手の糞つまらないプチブル的な安っぽい正義は、ファンタジー世界といわずライトノベルなどではよく見かけることである。
 私は何故かソード・ワールド2.0の世界観が大嫌いでプレイしたくないのだが、それはソード・ワールド2.0の世界観がラノベ臭く、特に蛮族というものの設定にくだらない社会正義の胡散臭い偽善的差別助長的徴候を発見したからなのだが、しかしそれ以来ルールブックにも触れておらず、何が気に食わなかったのか自分でも忘れてしまった。
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ファンタジー世界の名前 [ファンタジー世界考察]

 日本で、日本の歴史ものなどで「権兵衛」などという名前があると「おらが権兵衛だべさ」みたいな農民百姓を思い浮かぶかもしれない。権兵衛とは「ごんのひょうえ」のことであり、「権」は名目上の権力を意味し、「兵衛」は兵衛府を意味する。つまり権兵衛とは元々は天皇の親衛隊のことであり、そこそこ由緒のある名前である。だいたい、百姓は「~だべさ」なんて話し方をするというのもおかしな話で、方言なのだから東北の大名、伊達政宗なんかも「~だべ」とか話していたかもしれない。
 武士の名前だと政宗とか、信長とか、家康とか、そういうのを思い浮かぶだろう。だが「信長さま」とか「家康さま」とか言うことはありえない。大河ドラマなどではそういう台詞があるが、あれは現代日本人にわかりやすいようにしただけである。信長とか家康という「名前」は「諱」と呼ばれている。これは「忌み名」ともいう。つまり言うことが憚られる名前である。おそらくは元々支那の文化なのだろう。本名を口にするのは畏れ多いとして憚る風習があった。ファンタジーとしてはゲド戦記やFateシリーズの「真名」の概念は近いものがある。
 では実際に人をどう呼んだか。中国では字というものがあった。諸葛孔明などという場合の孔明が字である。日本はどうか。たとえば織田家の重臣丹羽長秀などは「五郎左」と呼ばれた。また、官職名で呼ぶことも多かった。秀吉は筑前守であったので、「筑前守さま」とか「筑前」「羽柴筑前」とか呼んだ。上述の権兵衛という官職名由来の名前もこの流れである。官職名では足りなくなったので、そのうちなんとなく官職名っぽい名前も流行った。東百官などという。主水とか伊織とかいうのはこのインチキ官名である。伊織などは何故か最近女の名前とされているが。
 だからファンタジーで、戦国時代に転生なりタイムスリップしたとして、信長などに出会ったとして「信長さま」などと呼んだりしたら首を刎ねられかねない。まあ、そもそも戦国時代とかに転生したとして、戦国時代の日本人の成人男性の平均身長は155cm程度であった。戦国時代ではないがイケメン感のある源義経などは一説に出っ歯のチビだとされている。戦国武将イケメン化など流行っているが、実際の戦国武将は現代日本人の感覚ならチビであろう。


 では中世ヨーロッパ風ファンタジー世界だとどうだろう。

 まず日本語との翻訳の問題が生じる。
 つまり敬語とかいうのは日本語に独特なものである。ヨーロッパ諸言語にもある程度丁寧な表現とか乱暴な表現とかあるけれど、日本語ほど分かれているわけでもない。
 呼称、敬称もそうである。たとえば銀河英雄伝説で「ラインハルトさま」などという言い方をしているが、ドイツ語で「さま」にあたる表現はないし、ファーストネームを呼ぶ場合呼び捨てであるのが前提である。まさか"Herr Reinhard"などと呼ぶわけにもいかない。しかしファーストネームに様付けするファンタジーは非常に多そうであるし、ファーストネームならさん付けすらおかしい。ファーストネームにさん付けするファンタジーなど掃いて捨てるほどあるだろう。
 一応ドイツ語などは、二人称代名詞の呼称は、「あなた」と「お前」に分かれていたりもするが。

 ヨーロッパでは親しい人間であればファーストネーム呼び捨てが基本であるわけだが、更にファーストネームにも愛称がある。基本的に愛称はファーストネームの短縮形である。
 たとえば、エリザベス、エリーザベト、エリザベート(それぞれ英独仏)の愛称はそれぞれベス、リースル、リースベトとなる。しかし日本人にはこの感覚がない。なのでエリザベス系の名前が、ファンタジーなどでは「エリ」になったりする。Fateシリーズの「エリザベート・バートリ」などは「エリちゃん」などと呼ばれているが出鱈目である。そもそもこの人物はハンガリー人なので「バートリ・エルジェーベト」であるし支配階級のハプスブルク帝国のドイツ語であっても「エリーザベト・バートリ」であるから名前も愛称も滅茶苦茶である。他にも、インフィニット・ストラトスのシャルロットも相性が「シャル」などとされているが、シャルロットの愛称はロッティだろう。
 しかしこの愛称はなかなか厄介である。日本人には感覚的にわかりにくいものが多い。「アン」の愛称は「ナン」であるが、日本人にはとてもわかりにくい。一文字増えているようにも見える。しかし英語話者には「ナン」のほうが発音しやすいという。
 だから結局この愛称問題、難しいのである。英語だけでも面倒なのに、ドイツ語やらフランス語の名前の愛称まで把握するのは面倒過ぎる。

 ではいっそのことオリジナルででっち上げたらどうか、となるとそれもまた面倒なところもある。人名ではないが、「カルピス」とか「ポカリスエット」というような商品名は海外では名前を買えている。カルピスは「小便」を連想させるし、ポカリスエットは「汗臭い」感じがするからだ。つまり何か適当にでっち上げても、海外の言葉のニュアンス的に奇妙に思えることはある。
 しかしこれもどこまで突き詰めるかという問題ではある。
 逆にだが、日本語の名前でも、英語話者から見ると奇妙なものもある。福島とか福岡というのは、英語だと"fuku"が"fuck"に思えてしまうのだ。

 結局どこまで突き詰めて、どこから諦めるか、そういう話になってしまうのかもしれない。
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ファンタジー世界の腋毛 [ファンタジー世界考察]

 歴史上の人物の評価というのは割りと恣意的に決められていることが多い。
 たとえば田沼意次などは賄賂の悪評で有名であるが、あの悪評は田沼失脚後に実権を握った松平定信のプロパガンダによるものである。実際にはその後失脚した田沼の屋敷を改めたらまったく財産が残っていなかったという。田沼意次は資本階級の資本蓄積を促し日本の経済の近代化に大きな役割を果たしたが評価されてはいない。田沼意次の領地があった土地、人吉かどこかだったと思うが、賄賂まんじゅうだかもなかだかを土産として売っているが、まったくもって郷土の名政治家をなんだってそのように貶めるのかと疑問を持たざるをえない。
 日本などでは、有名ではあろうが、司馬遼太郎を筆頭とする昭和期の歴史小説家の影響は強い。これらは江戸時代のサブカルチャーである講談などの影響を引き継いだものも多い。忠臣蔵や源義経の判官贔屓など典型的だろう。これらは歴史への好奇心を喚起したという意義はあるものの、歴史観の捏造にもまた役割を果たしている。


 さて本題。

 中世ヨーロッパにはムダ毛を処理する風習はあったのであろうか。

 たとえば、である。「今流行の」異世界転生をしたとして、ファンタジー世界に転生したとする。男だったらそこで女性と恋に落ちて、セックスすることは十分考えられる。ところが、いざセックスする段になって、相手が高貴なプリンセスであるにせよ、可憐なる村娘であるにせよ、あるいはプライド高い女騎士であるにせよ、まあ、金貯めて売春宿で女買うほうが早いかもしれないが、ともかく脱がしてみたらそのプリンセスなり村娘なり女騎士なり売春婦の腋毛がもさあと生えていたらどうだろうか。
 まあ、人によっては腋毛フェチというのもあって喜ぶ人もいるかもしれないが、現代日本人は女性の腋毛は処理されてしかるべきものと思っており、実際ファンタジーをモデルにしたエロコンテンツでも女性の腋毛は描かれていないし、ビキニアーマーに限らず腋を見せる女はたくさんいるけれどみんなつるつるの腋をしている。

 おそらく近現代になるまで、女性の腋毛を処理するという風習は、ヨーロッパ圏であっても日本であってもなかったような気がするので、「異世界転生」した先が中世ヨーロッパ風ファンタジー世界であったとしたら、そこで恋に落ちてセックスすることになっても、女が腋毛を生やしている可能性は高いようにも思える。
 ただ、古代ローマでは体毛は処理していたし、また、イスラム圏では体毛は処理するもののようなので、別に中世ヨーロッパ風ファンタジー世界で腋毛の処理をしていてもなんの問題もないだろう。

 古代ローマでは、ワックスのようなもので脱毛していたようである。現代でもブラジリアンワックスで脱毛する人はいるが。浴場に行くと奴隷がワックスを使って脱毛していたようである。どこまで脱毛していたのかは私はよく知らない。有名な古代ローマ人、カエサルやアウグストゥスは髭もはやしていないが、古代ローマには髭を剃り落とす風習もあった。これはポエニ戦争の時に敵味方の識別が容易なようにローマ人は髭を切ったらしい。ただ、アドリアヌスだったかトライヤヌスだったかから皇帝自らも髭を伸ばすようになった。
 ムスリムはムダ毛を処理するらしく、ユナイテッド93というアメリカ航空機テロを描いた映画でも、冒頭のシーンでテロリストのムスリムがクルアーンか何かを唱えながら体毛を丁寧に処理している。あるいはアラビアは暑いのでムダ毛も処理したのかもしれない。
 ただ、イスラームなどでは昔から、髭については、男の象徴であり、立派な男は髭を伸ばすべきであるとされてきた。髭が立派な男の象徴であったのは、イスラームに限らず、ヨーロッパ世界でも日本でもそうであった。現代、特に現代日本は特別髭は切り落とすものと認識されており、公務員の髭禁止などというのも存在した。当然ながらファンタジー世界でも男は立派な男の象徴として、誰もが髭を生やしていそうだが、やはり現代日本人にとっては髭はやや異質である。
 だからファンタジー世界でも女性は腋毛を処理しているのだろう。

 陰毛についてはその人の好みにもよりそうだ。古代ローマでは処理していたと思われるし、ムスリムも剃るのかもしれないが、実のところよくわからない。
 現代日本では、腋毛は処理すべきというのは一般的だが、陰毛については生えているものと思っている人も多いが、しかし最近は処理した方がいいという人もいる。
 二次元エロコンテンツでは陰毛は描かれない傾向は強いものの、一部のユーザーには根強く陰毛へのこだわりが見られる。
 このようなこだわりには個人的な好みが強く、一概にどうともいえない。しかし人によっては、腋毛や陰毛の存在で性的な欲望が左右されるだろう。

 ただファンタジー世界でそこまでこういった些末だが根源的生理的な欲望に関わる要素を描くか、難しいものではある。それはトイレだとか、何で大便を拭くかということもそうである。
 たとえば日本風ファンタジー世界を想定するにしても、お歯黒や引眉まで再現させたいと思う人はあまりいないだろう。静御前だの巴御前だのはファンタジー的に萌えの対象にもなっているが、お歯黒引眉ではあまり萌えられないだろう。しかしリアリズムを重視する人などは、お歯黒引眉がなければリアリティを喚起されないかもしれない。
 結局ある程度の妥協は必要とされるのだ。


 しかし妥協し難いものもある。
 たとえば、獣人、柔らかいいいかたをするとケモミミだとかケモノ娘だとか、そういうものがある。これらはファンタジーではかなりメジャーである。
 彼女らは、頭に巨大な耳を生やしているが、だとすると頭蓋骨に巨大な穴が開いており、また頭蓋のある程度の体積を内耳が占めていることになる。私などは彼女らを見ると、頭蓋骨に巨大な穴が開いていると思ってしまい、怖くて仕方がない。また、本来人間の耳があるべきは埋まっているはずであり、それもまた想像すると怖い。
 また、やはりセックスすることを考えてみよう。彼女らは尻尾も生えていることが多いが、正常位でセックスをしたら、彼女らの尻尾は痛そうに思える。後背位なら後背位で尻尾が邪魔そうである。耳などは幾らでも妥協できそうだが、しかしセックスの体位となると妥協の余地が狭くなる。
 それにセックスしないとしても、彼女らは少なくとも普通に仰向けに眠ると尻尾が邪魔だろう。これはいわゆる翼人にもいえる。翼人はほぼ確実に仰向けに眠れないし、正常位でセックスできない。

 ただまあ、尻尾のある人間、有尾人というのは、日本古来のファンタジーの産物ではある。イヒカなどといわれる有尾人は有名だろう。
 それに、西洋のファンタジーでも、スキヤポデスであるとかいうような滅茶苦茶な「亜人」が数多く出てくるし、西洋人もスキヤポデスがどうやってセックスするかなんて考えていないだろう。


 ここで訴えたいのは、ファンタジーを創るなら、セックスすることまでちゃんと考えろ、ということなのである。

 ただ、それをいうなら、そもそも私は白人に性欲を持てないという根本的な問題があるのである。私の性欲はモンゴロイドにしか向かないのだ。黒人などには性欲を持てない日本人はそれなりに多いものかと思える。
 更にいうなら、白人に性欲を持てないというのは当然ながら三次元の現実ベースのお話である。だから二次元で表現された白人であろうキャラには性欲を持てるのである。これなどは大きな欺瞞だろう。
 このファンタジー的な二次元性欲の広がりは広汎であり、たとえば三次元的想像力に基づいた日本人キャラなら許す気のないピンク髪ツインテールなども、ファンタジーベースの白人の二次元キャラならどうやら許せるらしいのだ。

 だからどうも私もファンタジー世界の腋毛などを偉そうに述べられる立場にないようなのである。
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ファンタジー世界の食べ物はまずい [ファンタジー世界考察]

 最近の私は、郷愁とか憧憬というものが極めて衰微していて、精神的に緩慢な死を迎えつつあるようにも思える。なんとなく懐かしくならないかと古いゲームを引っ張り出してみたがさっぱり懐かしくもならない。郷愁も湧かないし憧憬も蘇らない。
 ドラゴンクエスト3などもちょっとやってみたが、BGMなども全然心に響かない様子である。
 で、ドラゴンクエストはワールドマップを探索するタイプのゲームだったが、このシリーズにはよく離島に何かしらの施設がある。村とか祠があったりする。ユートピストの私はこのようなユートピア的な、孤島の施設に心惹かれたものである。
 ところで、ドラゴンクエスト3の孤島には、忘れ去られた村ザパンというのがあって、子供心にこれに非常に憧れを持った。で、その島には天文台みたいなものがあって、そこには、この世界は球体であり、それを自分は訴えているが、異端とされて島流しにされた、というガリレオ・ガリレイをモデルにしたと思しき男がいる。
 ところが、少し幾何学的想像力を働かせればわかるが、ドラゴンクエスト3の世界をつなげてみるとドーナッツ型にしかならない。



 このブログのアクセス解析を見ると、どうやらファンタジー世界の飲み物という項目が一番人気であるようで、「ファンタジー 飲み物」あたりで検索をかけてくるらしい。今その記事を見返してみたが、内容が薄くて、こんなつまらない記事に引っ掛けてしまって非常に申し訳なく思った。

 今日はファンタジー世界の食べ物の話をちょっとだけする。

 先日、駅近くのスーパーのフードコートにあるインド料理屋に行った。このインド料理屋は半年ほど前にできたもので、安い割に美味しい。なにより安い。大きなナンのついたカレーが550円である。
 ところが、その店をよく見ていると、店を訪れているアーリア人らしい人たちが食べているご飯とカレーの乗ったプレートがあるのだが、それがメニューに見当たらない。どうも来ているアーリア人の人たちはみんなそのカレーのプレートを食べているのだ。しかしメインメニューに載っていない。ついでにいうなら日本人は誰も食べていない。
 で、少し前に食器を返した時に、もう一枚のメニューが目立たないところにあるのを発見した。そこにそのアーリア人御用達のカレープレートや、他にも餃子スープなどのメインメニューに載っていないメニューがあった。どうやらネパールのものらしく、ネパールタリプレートとあった。
 というわけで、その次に行った時、その謎のネパールご飯を注文してみた。

 正直なところ、それほど美味しいとはいえなかった。カレーはマトンカレーと豆カレーがあり、他に謎の付け合せの漬物らしきものと、謎のペーストがついてくる。マトンカレーは美味しかったのだが、それ以外は私の舌に合わなかった。
 というか、おそらくは日本人向けに作られていないのであろう。日本人向けのメニューであるメインメニューに載っているカレーは、一応インド風ではあるものの、クリームか何か入っていて、明らかに日本人向けにアレンジされたものであった。そもそもポークカレーすら並んでいる。ムスリムの多いインドでは豚はあまり食べられないのに。
 この謎のネパールご飯は、おそらく「現地人」向けなのだろう。日本人向けのカレーには使われていないようなスパイスが使われている。パクチーも、「現地人向け」らしく、薬味として火を通して使われていた。カレーは、マトンカレーはまだ幾らか日本人受けしそうだが、豆カレーはいわゆる「コク」がなく、さっぱりしたものだった。付け合せについてきたものは、見た目は肉のようであったが、食べてみたら酸っぱい漬物だった。カレーに見えたペーストも、酸っぱい「何か」であった。

 かといって、このネパールご飯がまずいと決めつけるのは早計というものだろう。なにせ「現地」のアーリア人の客は喜んでこれを食べている。
 つまり、我々日本人の舌にはこのネパールご飯が合わないのだ。
 実際、「日本人向け」のナンつきカレーは非常に美味しい。

 さて。何をいいたいのか。

 中世ヨーロッパの食事もこの謎のネパールご飯と同じなのではなかろうか。
 つまり、我々現代日本人の舌には合わない。

 ファンタジー世界の食べ物もたいして変わらないだろう。

 最近は異世界のグルメを主題にした作品もあったりする。というかまあ新興のアルファポリスや主婦の友社は馬鹿の一つ覚えのように異世界転生ものばかり出版していた燃やしたい。焚書。閑話休題、まあ、グルメというのは人間三大欲求に根ざしたものだから読者に訴えやすい。
 しかしファンタジー世界、異世界の食事が美味しく感じるのは、異世界に生まれてそこの食事に慣れているからであって、現代日本人がその異世界とやらに転生したところでまずい料理しか出てこない。一年も転生先で過ごせばまずい食事にも慣れるかもしれないが。
 まあ、現代の料理技法を持ち込んで目新しい料理をつくるのならそれでもよかろうが、しかし食材の調達には苦労するだろう。中世ヨーロッパには砂糖もろくにないのだ。


 インド料理屋で食べたネパールご飯で、中世ヨーロッパとファンタジー世界の文化や常識、感覚に思いを馳せてみた。
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ファンタジー世界と架空の地図 [ファンタジー世界考察]

 伊集院光のラジオを聞いていたら、プロ「架空地図」士という人物がゲストで出てきて、驚いた。

 おおよそプロに限らずクリエイターというのは空疎な存在になる危機をはらんでいるものであるが、プロ架空地図士などというのは極めつけにその存在が、あまりに空想という世界に根ざしたもので、現実的な価値のあやふやなものである。
 クリエイターというのは基本的に求められるのは「ストーリー」である。何故人々が架空のコンテンツなど欲しがるのか。基本的にストーリーのためである。何か心に響くお話を聞いたり、あるいは知的興奮を求めて人々はコンテンツを求める。
 しかるに、架空地図というのは極めつけにストーリーが存在しない。そこにあるのは空想の事物だけである。架空の事物だけが存在し、中身などない。
 それがクリエイターのジャンルとして存在するのだから、しかもプロなのだから、驚きである。
 たしかに、森田一義のような人物が極めて知的興奮を覚えていたようであるが、それにしても、あるいはそこまでのものになるのだから、驚きである。


 ファンタジー世界を創造するにあたって、地図というのはほとんど必須である。創られたファンタジー世界の地図。世界そのものを創造するのだから、地図は必須だ。
 私も、高校の現実逃避時代、ひたすらファンタジー世界の地図を描くことで、その世界の実在性をなんとか保障しようとし、確固たるものとし、その世界に遊ぼうとした。

 地図というのは、描いてみるととても難しいことがわかる。
 ヨーロッパ風ファンタジーであることだし、実在のヨーロッパ大陸を念頭に置いてなんとか描こうと思うのだが、難しい。これは図像的に難しいというだけではない。私は一応元美術部なので図像的にはそんなに問題ではない。

 難しいのは、地学的、地理的に難しいのである。

 まず、大陸というものを描いても、素人知識では島みたいにしかならない。中央に山脈などを設定しても、山脈の北、山脈、山脈の南、それで終わってしまうのである。川を描いても、せいぜい山脈やら山地から出て海に流れるだけである。あるいは日本人的な発想の乏しさなのか、描けるのは「川」だけで、「河」が描けない。
 平原とか盆地とかも難しい。イタリア半島などはある程度わかりやすいので、まだいいのだが、たとえばパンノニアの平原などは難しい。だいたい、なまじ海で囲おうとするから、内陸部を作るのが難しいのである。
 特にヨーロッパ大陸は山脈も平原も河川も豊富であり、味わい深いものがあるのだ。

 それにファンタジー世界の地図であっても、政治や経済と大きく関わりがある。歴史もだ。歴史的にどの国が、都市が影響力を持ったのか。何故このような国境が引かれたのか。経済的中心は、物資の集積地はどこか。産物の、鉱石や農産物の産地はどこか。それらはどのように流通しているのか。その結果どのような国家が存在しうるか。……


 しかしそれにしても架空地図である。

 架空地図というのは、そもそもは何かしらのコンテンツの副産物であって、それ自体独立するというのは想像がつかなかった。
 たとえばロードス島戦記ならロードス島(架空の方の)の地図が載っており、それによって小説の理解を深めるわけである。
 しかし、プロ架空地図士というのは、地図だけであり、地図単体で商売にすらなっているのだ。

 ちなみに、伊集院光のラジオに出ていたそのプロ架空地図士というのはあくまで「現実世界」の架空地図を描くのであって、「ファンタジー世界」の地図を描くわけではない。
 つまり、架空の、たとえば「海羽空市」の地図を描くわけであって、架空の「なんちゃらワールド」の世界の地図を描くわけではない。

 地図を描くのは容易ではない。地理、地学、そしてその周辺の社会的事象を知悉しなければ描くことはできない。
 なにせあの森田一義が知的興奮を覚えるような架空地図である。


 架空地図で驚きなのは、単一のコンテンツとして存在できるだけの、いやそれ以前に、架空地図という存在そのものの、純粋な想像性である。

 前々から書いているように、小説や漫画やアニメのファンタジー、架空性など、シナリオの表面を取り繕えれば、どうでもいいのである。ストーリーさえ読者の心を掴めるのなら、多少世界の想像力に破綻をきたしていてもなんの問題もない。
 実際、この世界が現実に存在していたら、地理学的に、生物学的に、社会科学的に破綻するであろうような創作世界などたくさんあるだろう。
 TRPGの世界などは、この問題をある程度クリアする必要が生ずる。TRPGの世界は、ストーリーそのものを供給するわけではない。その世界を舞台として、「いかなる」物語でも包摂できるように、少なくとも名目上、そう創られる必要がある。GMがどんなストーリーを作ってもいいように。だからTRPGの世界は独立性と十全たることを求められる。だがそれにしても、破綻をきたしそうな世界はいくらでもあるし、プレイアビリティを基本としてその世界の独立性を、犠牲にしたりあるいは無視する事象はあるだろう。

 しかし、架空地図は違う。
 小説や漫画やゲームの世界も、TRPGの世界も、何かしらの目的のために、ある程度折り合いをつけて世界をデザインされる。
 しかし、架空地図はそうではない。世界のデザイン、地図、その事象そのものが目的である。その地図という確実な事象そのものが十全でなければならない。地図に描かれた世界は完全でなければならない。川があるなら、その源流も河口も存在するものとして設定しなければならない。鉄道も、駅も、道路も、その街に、街の規模に合ったものでなければならない。街はその経済力、生産性、居住性、それらをすべて考えて想像され、地図に描かれる。だからこそプロの架空地図士が存在し、森田一義のような人物が感嘆する。


 私がファンタジー世界について懇懇と訴えているのは、まさにこれである。
 私にとってファンタジー世界は確実に、遺漏なく存在しなければならない。それはそもそも、世界そのものの想像が目的であるからである。物語は二の次なのである。世界は完全で完璧でなければならないのだ。
 架空世界の創造を目的としている私にとって、だから、この架空地図の存在は非常に新鮮な驚きであったのである。
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ファンタジー世界の科学とか発明 メモ程度 [ファンタジー世界考察]

 ここのアクセス解析を見るとCardWirth関係の記事へのアクセスが多いのだから、胡乱な知識に基づいたいい加減なファンタジー世界の考察など書かないでCardWirthのシナリオ評価なりリプレイなり書けば良いとは思うのだが、グラフィック周りの不具合でCardWirthのプレイに時折支障があるのもあるし、特別私もCardWirthを毎日やりたいくらいはまっているわけでもない。

 なによりそれより、私はそろそろ次の小説を書く算段でもしないといけないのだが、さっぱり手を付けていない。想像力がさっぱり働かない。しかも最近ろくに小説を読んでいない。物語というものから遠ざかっている。最近読んだのは軍事史の本とか澁澤龍彦のエッセイとかばかりである。
 そもそも物語より事物の好きな私に小説などまともに書けるのかと思わないでもない。私は特別物語をたくさん読んできたわけでもないように思える。本の虫というのでもないし。


 科学雑誌で記事を見かけたのだが、地球温暖化によって航空運輸業界が打撃を受けるそうである。
 地球温暖化により空気が熱せられ膨張する。つまり密度が低くなる。すると、飛行機に必要な揚力が発生しにくくなる。揚力というのは翼によって空気の密度の差異を作り出し、生まれるからである。そうなると滑走路を長くしたり、貨物量を減らすなどしないと十分な揚力を生み出せない。だから航空機で運べる荷物や人員が少なくなり、滑走路も延長しないといけない。
 地球温暖化の影響というと、人々が真っ先に思い浮かべるのは海水面の上昇とか、極地の氷が溶けるであるとか、あるいは最近なら強大な台風やゲリラ豪雨などでろう。航空運輸への影響はあまり考慮されていなかった。

 人間の想像力というのもそんなに遠大なものではない。
 たとえば、毛沢東の大躍進政策では、穀物の生産躍進のために穀類を食べる雀を駆除したり、種子を地中深く埋めると植物の根が育つというルイセンコの提唱したミチューリン農法が行われたり、製鉄量のノルマを課したりした。これらの「浅い思慮」が何をもたらしたかは誰もが知っている。雀についていうなら、雀というのは植物だけでなく、植物に害をなす虫も食べるので、雀の駆除は害虫の天敵を駆除しただけなのだ。お陰で虫の害がひどくなり凶作となった。
 安い想像力というのは雀を駆除すれば農業への害が単純に減ると思うのと同じである。

 ファンタジー世界というのも、安易な設定などを出しても大躍進政策の雀と同じで、実際行ってみたら少なくともシミュレートの段階で、割りと容易にボロが出るのではないかと思える。
 当たり前といえば当り前であり、一般的にファンタジー世界に求められるのは「素晴らしいストーリー」であり、別に科学的シミュレートのために人々はファンタジーを楽しんでいるわけではない。
 だからそんなものを気にする必要はないか、というとあまりに浅薄な設定は世界自体のリアリティを損なう。といったところで、その敷居は限りなく低い。なにせ現代世界が舞台であっても車に強化ガラスがはまっていない。そして人々は窓ガラス程度でリアリティを損なわれたりしない。
 それでも田中芳樹などは中世ヨーロッパ風の世界で数万人の兵士を動員するために苦心惨憺し、結果ジャガイモを中世ヨーロッパ風世界に登場させている。しかし凡百のファンタジー世界には普通にジャガイモは登場するだろう。

 前にファンタジー世界の社会科学と自然科学について、自然科学はある程度魔術や神の奇跡を介在させられるが、社会科学はそうもいかないと書いたものの、かといって自然科学が自在に改変可能となるわけでもなかろう。


 前にファンタジー世界で社会の発展、中央集権化や軍事革命や資本の蓄積が起きないのは、いわゆるモンスター、ゴブリンやらオークやらが社会を断続的に破壊するから、という仮設を書いたが、それとて実際的にどうであるかはなんともいえない。シミュレートといったところでこの胡乱な脳みそでできることなどすぐ限界に達する。


 ついでにちょっと発明について。

 人類の発明史というのは色々と奇妙な過程を辿っている。
 たとえば文字というのは、完全に独自に発明されたケースが、三つか四つしかない。シュメルの文字、漢字、マヤ文字など、これくらいしかない。エジプトの文字などはシュメルの文字とは系統が違うが、シュメル文明の文字という概念に触発されて発明されたのだとされている。シクウォイアのチェロキー文字と同じである。
 ねじというものは、中華帝国やその近縁の東アジアでは発明されなかった。中国で発明されなかった唯一の機械だとすら呼ばれている。
 アナログ計算機、蒸気機関、印刷といった発明は古代ギリシアでなされていた。アンティキティラの機械やアレクサンドレイアの蒸気人形やファイストスの円盤などのことである。しかしこれらの発明はその後の文明にまったく受け継がれなかった。
 つまり、発明とか文明とかいうものはすべてがシヴィライゼーションのテクノロジーツリーみたいにいくわけではないのである。

 だからファンタジー世界にしても、発明とか文明とかを考えるにしても限度があるし、逆にそこにつけ込む余地も生まれる。
 アレクサンドレイアの蒸気機関が受け継がれたファンタジーだって想像可能ではあるのだ。
 だが、かといって産業革命を起こすためには資本の蓄積という問題も発生する。

 そこまでファンタジー世界で考える必要があるのか、ないのか。
 その回答は知らない。
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ファンタジー世界のストーリーテリング [ファンタジー世界考察]

 実のところここのアクセス解析を見ると、CardWirth関係の記事の方がアクセス数が多いし、CardWirthで特定のシナリオ名で検索するとここが割りとトップに来てしまうので、アクセス数を求めるのならCardWirthの記事を書く方がいいのだが、しかし今はPCの調子が悪いのでCardWirthそのものをプレイできない。
 文句をつけることではないが、このブログはSEO的に良好過ぎる。金貨や銀貨の価値もろくにわからないのにこんなブログが検索トップにきても誰の益にもならない。CardWirthだって短い紹介しかしていない。アクセス数が多いと喜びはあるが、申し訳なくもある。


 ストーリーテリングなどというが、大した長編小説も書けなければ、TRPGやPBWのGM経験も大して積んでもいない私が偉そうに書くこともないし、書くのもおこがましいとは思っている。
 なのでこの記事は多分なんの利益にもならない。私にとっても。

 レクリエイターズを見ていると、いまいちシナリオが面白くない。正直なところ。どうも、わかりきった結末に到達するためにシナリオを消化するために逐次的に展開しているだけに思える。

 ただ、特にファンタジーもののシナリオはそういう傾向はある。これはファンタジーの源流たる神話の構造とも関わるようにも思える。

 よく、特にMMORPGなどで、お使いシナリオというのが非難される。要するに、ここに行って誰にこれを届けろ、という依頼を延々されるだけのシナリオということである。
 ただ、お使いシナリオ自体は特にファンタジーでは基本である。

 ファンタジーというのは、だいたい、結末がわかりきっている傾向がある。重要なのは、そこに至るまでの道程をどう先延ばしし、描くかである。
 ドラゴンクエストなどというのは、それが視覚化されている。目的は目の前の竜王城である。しかしそこに行くには延々とお使いをさせられる。それだけのゲームシナリオなのである。大雑把に言えば。目的は竜王を倒すことだけである。いや、一応姫の救出もあるのだが。
 結局、ドラゴンクエストのシナリオというのは、竜王城への道のりをなるべく引き伸ばし、そしてそれをもっともらしく見せるだけのものなのである。ドラゴンクエストの「クエスト」とはそういうものなのだと思う。

 といっても、別にそれを批難するつもりでも否定するつもりでもない。
 TRPGだってそうである。冒険者の日常というのも、延々とゴブリン殴り倒すだけの日々だっていいのである。あるいは隊商の護衛を延々と。TRPGは実のところそれだけでも楽しい。あまりシナリオにすごいシナリオ性は必要ない。ロールプレイ自体が楽しみなのだから、シナリオはそんなにリッチでなくてもプレイヤーは楽しめる。
 ただ、コンピュータRPGはロールプレイわけでもない。アニメでも漫画でも小説でも、コンピュータゲーム以下のインタラクティブ性なのだから、当然それでは満足できない。PBWの安いシナリオにそれなりの金を人々が支払うのも、自分のキャラの活躍が楽しいからである。

 神話にその由来があるというのは、つまり、神話の英雄譚というのは、神々が英雄を成長させていくために試練を与えていく過程なので、英雄たちは神々から与えられたクエストを淡々とこなしていく。
 つまり、英雄の玉座に至るまで、資質を証明するために延々と同じような試練を課せられる。

 ゲームに戻ると、漫画や小説や、あるいはコンピュータゲームはどうしてもストーリーリッチが必要なのは、逆にいうとTRPGやPBWがそこそこチープでも楽しいのは、ロールプレイの有無にある。小説では、幾ら優れた作品でも、自分自身を完全に主人公に反映できるわけではない。


 だからどうしたといわれると、別に、ただそれだけの話ではあるのだが。
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ファンタジー世界の宗教と修道院 [ファンタジー世界考察]

 話の枕を何か用意していたのだけれど、忘れてしまった。

 ファンタジー世界のマジックアイテムについて一文書こうと思ったのだが、たとえば資料(まあ正直Wikipediaだけれど)にリーヴルと書いてあって、それがそもそもどのような単位かわからない。調べると銀貨と思われるが、それが今の貨幣価値で幾らくらいになるかもよくわからない。
 このブログでは以前に、銀貨は100円、金貨は20万円、と偉そうに書いたが、どうもそれも正確といえるかわからない。いや、「ファンタジー世界の銀貨と金貨」はだいたいこれでもあっているのだが、「中世ヨーロッパ」となるとどうだか。調べるとフィオリーノ金貨は12万円くらいだという。ただ、20万円の根拠であるデュカート金貨は24金で、フィオリーノ金貨は18金らしい。
 ここでは偉そうに書いて、SEO的に検索上位にヒットするが、ここの情報など斯様に胡散臭いのであるから、留意されたい。


 今日は修道院のことを少し書く。……

 そもそも日本人は修道院にあまり馴染みがない。シスターの服はそれなりに有名だが、それくらいである。修道院組織は学校法人を運営していることも多いので、日本人にはそちらのイメージが強いのかもしれない。
 日本で有名な修道院というと函館のトラピストやトラピスティーヌかもしれない。トラピストの方は厳格な修道院であり、観想修道会と呼ばれるキリスト教でも少し特別な、厳格な修道院ではある。徹底的な禁足地となっており、自由に中に入れるわけでもない。バターやクッキーは有名である。トラピスティーヌの方は、同じ観想修道会であり厳格な修道院なのだが、割りと観光地化している。もちろん、内部には入れないのだが。

 だいたい、日本ではやはりキリスト教はマイナーな宗教ではある。それに、キリスト教文化圏に全体的に馴染みはないし、一神教の「臭い」を知っているわけでもない。

 日本のネトウヨは、イスラームのテロなどが起きると、一神教つながりでキリスト教まで不寛容だのなんだのと難癖をつける傾向があるように見える。で、一応多神教である神道などを褒めるのだが。
 かわいそうなことに、ネトウヨに大人気の麻生太郎などはカトリックである。麻生太郎は首相在任時、アクィラサミットのついでにローマ教皇に拝謁したのだが、この瞬間こそ麻生太郎は個人的に首相となったことを神に感謝したのであろう、などと思っていた。他にも大平正芳は聖公会の信者であり、吉田茂は実質的にカトリックであった。洗礼は受けなかったが。もっとも、ネトウヨにとって吉田茂などは売国奴になっている可能性もあるが。
 そもそも彼らが支持する安倍=日本会議もキリスト教右翼と結びつきが強い。安倍が勝共統一教会で壺を売っていたというアンサイクロペディアの書き込みは眉唾だが、日本会議には統一教会も賛同している。表現規制も主体だったのはキリスト教右翼フェミの矯風会であった。松文館裁判など見ても右派と警察が表現規制の主体であった歴史が見えるが、近年サヨクがフェミつながりで表現規制に肩入れしているので、すっかり矯風会や生長の家や親学の連中が規制派だったことが忘れ去られている。

 話が大きくずれた。ここでは政治の話などしたくない。

 ファンタジー世界はたいていの場合、多神教の世界ということになっている。一つには、私の推論だが、ファンタジー世界を作ったキリスト教文化圏の人間が、キリスト教から逃避するために作ったのがファンタジー世界だからではないかと思っている。男がジェンダーフリーを目指して百合に走るのと同じである。
 これに、古代ローマや古代ギリシアなどへの憧れや、あるいは「蛮族」として暮らしてきたケルトやゲルマンの民への郷愁めいたものなども混じるのであろう。というかそちらが主体か。

 ではかといって修道院の存在を、中世ヨーロッパ風ファンタジー世界で無視していいかというと、そうもいかない。中世ヨーロッパ世界において修道院は、特に観念の面で非常に大きな、強い存在であった。修道院のない中世ヨーロッパ世界など想像できない。だから中世ヨーロッパをベースにする以上修道院は無視できない。
 中世ヨーロッパでもっとも技術と知性が発達したのも修道院である。大学などではない。修道院は知識の集積所であった。活版印刷のなかった中世ヨーロッパでは、図書の「生産」は筆写によるしかなく、そして筆写の最大の拠点が修道院であった。ファンタジー世界における活版印刷や紙の仮想的発展は世界観をそれを不要にするかもしれないが、中世ヨーロッパらしさは修道院なしでは語れない。
 修道院で技術的発展が見られたのは、その技術を開発する、あるいは発明の余裕を与える経済的基盤があったからだ。修道院には俗界領主からの寄進があったが、俗界領主と違い相続で分割されることがなかったため、財産は増える一方だった。
 観念的に修道院は重要である。その精神構造にはユートピア的なものが見られる。修道院の時間は永遠である。修道僧達は永遠の祈りを、俗界から断ち切られた祈りの場で送った。今日も、明日も、明後日も、永遠に彼らは祈りを続ける。機械式時計が修道院で生まれたのは偶然ではないと澁澤龍彦は述べている。祈りの時を計り、告げるのが機械式時計の役割だ。機械式時計の盤面はユートピア的である。針は永遠に盤面を回り続け、終わりがない。時計の針は永遠に回り続ける。
 もっと世俗のことをいえば、酒は修道院の文化であった。坊主というと俗界の楽しみから切断されて酩酊するなどもってのほかと日本の感覚だと思われるが、そもそもヨーロッパは水が飲めたものではない。修道僧達は飲料にするためにも、労働の成果としても、酒を造った。ビールやエールに必須のハーブは修道院の秘密でもあった。蒸留酒も修道院で生まれた。かのマルティン・ルターなどは、ビールを飲むと天国が降りてくるなどと述べている。ワインもリキュールもビールも、今の時代だって修道院で作られている。
 それに騎士団というファンタジー世界でおなじみの組織も修道院のものである。騎士団は、十字軍の際に聖地巡礼を行い、巡礼者を助けるために結成された「騎士修道会」が元々の存在である。現代でも活躍しているマルタ騎士団、聖ヨハネ騎士団は十字軍で巡礼者の病気や怪我を治癒するための医療組織としてスタートした。だから聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団とも呼ばれる。だいたい、騎士団は日本で思われているような軍事組織というわけでもない。元は修道会であるし、その後それを模倣して作られたのがガーター騎士団や金羊毛騎士団やドラゴン騎士団のような世俗騎士団であるが、これらはせいぜいが上流階級の社交クラブのようなものである。


 しかしまあ、キリスト教文化圏と、日本とでは文化的断絶は大きく、その最大の所以がキリスト教などの一神教にあるようには思える。
 いや、ギリシアやローマは多神教で、たとえば一神教が目の敵にした同性愛なども盛んに行われていたが、それでもそれが日本の文化と親和性がどれくらいあるのかはわからない。塩野七生などは古代ローマと日本の類似点を様々挙げているが。

 たとえば、私はここでJRPGを、絵面だけが綺麗とか、アニメチックにすぎるとか、そんな切り口で取り上げているが、JRPGとキリスト教文化圏のRPGの差異は一神教への親和性に所以するウェイトも大きいという。つまり、神というものへの考え方である。
 JRPGは、たとえば女神転生シリーズに見いだせるように、特に真・女神転生のLOWサイドの描き方に見られるように、割りと神に対して普通に叛逆する。なんなら、一神教の神を思わせる「神」なる存在が色々と裏で陰謀を巡らせている、すべての(主に悪の)黒幕である、というのが根強い。これは日本で特別発展したものだともいう。ラスボスがヤハウェなどというゲームは日本ならではとも思える。いや、今ラスボスをヤハウェにする度胸がセガにあるとも思えない。まあ、真・女神転生シリーズなど明らかにキリスト教の天使が今でも割りと悪の側に立っているが。

 別にラスボスにヤハウェを持ってきたり、神がすべての悪の根源とかいうのも、個人的に問題とか間違いとも思っていないし、なんなら好きでもあるが、しかしそれは一つの、大して厚い根拠をもった視点というわけでもない。確かに古代でもグノーシスの教えなどは神を悪と見做す思想であった。しかし軽々に中世ヨーロッパを同じ視点で見るわけにもいかない。カトリック教会についての、そういった日本的な見方を通した中世ヨーロッパ観、というかそれを元にした中世ヨーロッパ風ファンタジー世界の信仰のあり方は、かなり薄っぺらく見えることが多い。上述のネトウヨくらい軽率である。


 中世ヨーロッパ風ファンタジーだから修道院が必須であると述べたりはしないが、それに配慮していない世界の、特に宗教の面は、しばしば軽薄に見える。
 中世ヨーロッパ、もっというなら「未明の世界」における信仰というものの存在を軽く見ていることが多いように思える。日本は宗教というと今の半分無宗教状態が通常に思えるから、過去の神道や仏教、また神仏習合にすら理解が足りていない。日本の神道、仏教、神仏習合などを近代的な視点でしか理解し得ていない。キリスト教などは尚更である。日本で宗教などというと、新興宗教のことしか思い浮かばない人間も多いかもしれない。
 軽々にファンタジー世界の住人が宗教に叛逆するとは思えない。それはあまりに現代日本的価値観にも過ぎる。


 キリスト教文化圏と、日本の文化で大きな差異を見せるのは、宗教の陰画たるエロティシズムの分野かもしれない。だが、それを書くにはここの余白は……いやもう疲れたというか。
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戦略、百年戦争、コーエー [歴史]

 最近のスマホゲームの謳い文句で、そこそこ聞くことがあるのが、「戦略的バトルを楽しめる」というのがある。しかしそもそも戦略とバトルは違うものであり、英語でいうならTierが異なるものであり、こんな言葉は成り立たないように思える。まあ相変わらず下調べとかしていないのでいい加減な知識に基づいているから保証できないが。

 今日はその話をしたかったのか、それともコーエーテクモ、の中でも特にコーエーのゲームを批判したかったのか、よくわからない。


 戦争には幾つかのTierがある。日本語だと順序とか序列とかいう言葉になるだろうか。和訳しにくいので最近の洋ゲーだとTierのままにしてあることが多い。

 戦争の最小単位は戦闘である。バトルである。これは要するにいかに銃弾を敵兵に当てるか、とか、敵戦車にいかに歩兵が肉薄するか、といったような内容である。あるいは剣を振るうとしてどこを狙うか、攻撃をパリイすべきか、躱すか、なんてことでもある。
 ゲームでいえばFPSにあたる。

 その次が作戦である。部隊をどう動かすか。艦隊をどのように運動させるか。艦載機の発着はいつ行うか。そういう個人ではないレベルのお話である。
 それと戦術がある。戦術と作戦を明確に分けるのはここでは面倒である。いや、違いはあるのだが。
 たとえば、対馬沖海戦で見ると、対馬沖を戦場に設定したことも作戦であるし、トウゴウ・ターンは戦術である。ネルソン・タッチも戦術であるし、フリードリヒ大王の内線作戦は内線作戦というくらいだから作戦である。カンナエの戦いでのハンニバルの機動は戦術である。
 作戦はプランニングであり、戦術は具体的な手法である。

 その上にあるのが戦略である。戦略は多くの分野を包括するから意味が拡大してきた。
 対馬沖海戦でいうなら、日英同盟や、半ばロシア帝国での諜報活動でドッガーバンク事件を発生させたことも戦略である。あの海戦はドッガーバンク事件を起こして大英帝国の反露感情が膨れ上がった時点でそもそも戦略的に決着がついていた。トウゴウ・ターンはそれにとどめを刺しただけの話である。
 七年戦争でいうなら、フリードリヒ大王は開戦した段階で戦略的にあまりに不利であり、それを大王の優れた戦術、外交的幸運、それと大英帝国の植民地戦争などの要素でひっくり返した。ナポレオンはロシアに進攻したその戦略自体がもはや敗北であったし、それをいうなら大陸封鎖令が戦略的敗北であった。大東亜戦争などは最初から戦略的に負けていた。

 ただ、戦略という言葉は、ビジネス用語として定着したためカッコイイと思われているため、この言葉が濫発されて、「戦略的バトル」なる言葉が生まれたのだろう。
 スマホゲームの戦略とやらは、実のところ金と時間の管理のことを指す。いつイベントにどれだけ参加して、無料通貨をやりくりしつつガチャにどれだけ金をかけるか。それがスマホゲームの戦略である。だいたい、ストラテジーゲームなんてスマホゲームにあまり見かけないし。ちなみに軍事用語でいうなら、ガチャのためにどれだけ金を用意するかは兵站ともいえよう。


 戦略的勝利と戦術的勝利は必ずしも一致しない。
 戦術的に勝利しても戦略的に負けることはしばしばあるし、その逆も存在するかもしれない。

 戦術的勝利が戦略的勝利をもたらさない、大きな例証というか、故事としてあるのが「ピュロスの勝利」である。戦術的には勝利を収めたのに、割に合わず、最終的に負けてしまった、古代ローマとマグナ・グレキアの、傭兵として雇われたエピロス王ピュロスの戦争のことである。ピュロスは三度ローマに勝利したが、犠牲の大きさもあり、何も得られなかった。
 三十年戦争のリュッツェンの戦いなどは、スウェーデン軍が勝利したが、肝心の指揮官であった国王グスタフ・アドルフ2世が戦死したのである。


 戦術的にろくに勝てなかったのに最終的に勝利を収めた戦争としては、百年戦争がある。
 フランス軍は、クレシー、ポワティエ、アザンクールと、戦史上に残るといってもいい大惨敗を重ねている。しかし最終的に勝ったのはフランスである。
 フランス王国が最終的に逆転したきっかけになったのはオルレアン包囲戦であるから、あのジャンヌ・ダルクが大きなウェイトを占めていると思われかねないが、しかしフランス王国が大惨敗にもかかわらず持ちこたえたのは、外交と内政の結果である。
 シャルル5世も、シャルル7世も、フランス王国に勝利をもたらしたが、彼らは軍事的には有能ではなかった。陣頭に立って戦いもしなかった。銀河英雄伝説ではやたら陣頭に立つことが偉いという価値観で貫かれているが、フランスの国王達はあまり陣頭に立つ伝統はない。それでも様々な勝利をもたらしてきた。歴代フランス国王はむしろ戦争下手が多かったように思える。聖王ルイ9世などはやたら異教徒相手に戦争をしていたが、軍事的才能はさっぱりだった。
 ではフランスの国王達は何をしたのか。戦争をするための金を調達したのである。戦争は金である。兵士でも英雄たる王でもない。軍備を整えるための金である。絶対君主達は何度も破産しているが、ほとんどは軍事費のためである。
 特にシャルル5世などは「税金の発明者」として知られている。中世ヨーロッパでは間接税しか存在しなかったが、彼は竈税という形で人頭税、つまり直接税を徴収した。これは彼の父王が、ポワティエの戦いで捕虜となり、その身代金を調達するという名目ではじまったが、恒常化した。
 プロイセン王国が国力に似合わないまでの精強な軍備をなしえたのも税金のおかげである。ヴィルヘルム・フリードリヒ大選帝侯が他のすべての特権を貴族に明け渡してまで手に握った徴税権が軍事費の源となったのである。



 最後にコーエーのゲームを批判して終わりにする。

 コーエーの歴史シミュレーションゲームは、基本的に人物中心主義で、武将単位ですべてが進む。武将は大まかに分けて二つのパラメータを持っている。軍事と内政である。他にもあるが目立つのは軍事と内政である。
 しかしまあ実際のところ、コーエーの歴史シミュレーションゲームは軍事偏重主義である。軍事の高い武将がいればだいたい勝てるし、逆に軍事の高い武将がいなければ、どれだけ内政の高い武将がいても勝てない。

 コーエーのゲームの内政は単純極まりない。建物を建てるだけである。あるいは耕作地を広げるだけである。そして、内政というパラメータは、せいぜい、この建物を建てるスピードや効率をあげるだけなのである。それは高いほうがいいだろうし、非常に低い武将は内政の役に立たないが、しかし別に高くてもあんまり意味がない。羽柴秀長や石田三成のような武将も、利点は建物を建てる速度が上がるだけなのである。

 なんで上で百年戦争の話などしたかというと、実際の歴史では、軍事よりも内政のほうが重要だといいたいわけである。
 それは、内政を整えなければいかに信長の野望でも大軍を揃えるのは大変なのだが、それでも内政といっても建物を建てる速度がせいぜいなのである。

 逆に軍事は偏重されている。ひどい話、敵に軍事が90以上の武将がいたら、80以下の武将に大軍を率いさせてもさっぱり勝てない。昔は特にこの傾向がひどかった。軍事90あればどんな大軍でも敵の軍事が80以下であればどんどん敵の大軍が溶けていった。
 最近のゲームではこの傾向は緩和されつつもある。
 それに、実のところ洋ゲー、ヨーロッパユニバーサリスなどは、数ばかりで、軍事的に逆転する要素がほとんどない。洋ゲーは基本的にこの傾向は高く、多くの場合数を揃えれば倒せる。
 だからコーエーのゲームで、少数の軍隊でも勇将や作戦次第で逆転できること自体はよいことだとは思っている。
 しかし、それに比べて内政が建物を建てるだけというのはいかにも寂しい。

 逆にクルセイダーキングスなどは、軍事的に強くてもなんともならない。内政、というより配下の貴族たちへの外交をうまく切り抜けなければ内乱祭りになる。
 クルセイダーキングスは封建制度の雰囲気を比較的うまく再現しているとされている。だからそれを日本の封建制度にも当てはめて、戦国MODを作ろうという試みはあり、そしてパラドックスもSengokuというゲームをリリースしたが、残念ながら評価は芳しくなかった。
 日本だって、大名が苦心したのは配下の武将たちの取り扱いであった。信長の野望では論功行賞など存在しないに等しいが、元寇の後に論功行賞で鎌倉幕府が失敗したように、武士社会で論功行賞は最も苦心したところなのである。今の信長の野望では、たとえば丹羽長秀が上野一国より茄子茶入の方が欲しくて悔しがったなんてことを再現できない。

 コーエーのゲームは、そもそも、不評続きである。最近で評価が高いのは信長の野望創造だけである。それでも、あそこは殿様商売で、一万円近い定価で売りつけてくる。しかもその一万円も未完成品で、多くの場合パワーアップキットが出て初めてそのゲームが「完成」されると評されている。もはやパワーアップキット商法という言葉すら存在する。
 それでいて不評ばかりである。三国志シリーズなどいい話をまったく聞かない。信長の野望も創造までは酷評ばかりであった。コーエーのゲームは二度と買わないなんてレビューは幾らでもある。

 しかしそれでいてコーエーは強気でもある。BGMとか海外のオーケストラを起用している豪勢っぷりだし、武将の顔グラフィックなど実に豪華である。だから一万円近い価格を提示できるのだろう。
 それでも、こうも不評続きでよく保つものだと思える。

 一応コーエーも地位にあぐらをかいているだけのわけでもない。たとえば、最近の信長の野望などは明らかにパラドックスのゲームの影響が見える。さすがに建物建てて軍隊ぶつけるだけではだめだと思ってはいるらしい。

 だがコーエーにはもう一つ残念な点もある。それは、もはや信長の野望と三国志以外作る気がなくなったことである。大航海時代はソシャゲになってしまった。提督の決断も、アジアへの売り込み戦略のために亡き者にされた。
 昔は、項羽と劉邦とか、源平合戦とか、アメリカ独立戦争とか、意欲的なタイトルもあったのだが、そんな過去を知っている人間もいなくなったのだろう。

 まあ、最近は無双とかなんとかいうチャラいコンテンツで潤っているので、戦略シミュレーションなどどうでもいいのであろう。
 日本人は戦略シミュレーションだとかシミュレーションとかストラテジーとか、もう遊ばなくなってしまったらしい。ここまでこのジャンルだけ衰退した国もないだろうに。
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