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サンプウィード [歴史]

 「サンプウィード」とはなんだろうか。

 まあジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んでいればわかるが、同書に登場する、北米で栽培されていたとされる食用植物のことである。ブタクサのようにアレルギーや臭いがひどいので栽培作物の座を失ったと同書にある。
 しかし日本人には馴染みがなくさっぱりわからない。

 なのでちょっとだけ調べてみた。

 サンプウィード(sumpweed)のWikipedia記事より

 iva annua, the annual marsh elder or sumpweed

 とある。イヴァ・アンヌアというのが正式な名称らしい。annuaとはスズメノカタビラのことであるそうだ。スズメノカタビラはイネ科の雑草で、それこそブタクサに近い。が、サンプウィードはキク科の植物である。キク類キク目キク科フナバシソウ属サンプウィードだそうだ。
 一年草でヒマワリの仲間。原産地はメキシコ北東部タマウリパス州。米国南部、中部、東部に生育。高さは150cmになるそうだ。セイタカアワダチソウに似たような位置づけらしい。
 4000年以上前に米国東部でインディアンたちが食用植物として栽培していたという。が、アレルゲンや不快な臭い、そして何よりトウモロコシに駆逐されたという理由で栽培放棄されたのだそうだ。


 アクセス解析で一定の検索があると思ってググってみたらうちのサイトがトップに来たので調べ直してみた。以上。
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悠久なる中華帝国 [歴史]

 カール・マルクスの史的唯物論に中華帝国の「停滞」はそぐわなかったらしく、彼はそれを「支那的停滞」などと称していた。
 いったい何故中華帝国はかくも悠久なのか。支那史という大きな謎である。

 中華帝国というのは有史以来同じことを繰り返してきた。もちろん実際の支那の社会は変遷を繰り返している。だが本質において中華帝国は永遠である。三皇五帝は司馬遷すら信じていなかったとしても、商(夏)の時代から毛沢東に至るまで中華帝国は永遠である。
 まあ中華帝国の本質はここではあまり語らないこととして。何故支那史が王朝の興亡ばかりを繰り返してきたのか。

 ジャレド・ダイアモンドによると、その理由は漢文明の等質性にあるという。つまり、支那大陸というのは、中原から燕、蜀、越、楚、斉に至るまで、同じ支那語を喋る漢民族である。当然地方の風土というもの、風習の違いなどあるだろうが、大きく変わるわけではない。
 それに比べると「文明先進地」欧州は実に多様である。ラテン文化はアルプスとシュヴァルツヴァルトに阻まれてゲルマンはゲルマンであり、そのゲルマン民族もバルト海を超えればまったく異なる様相を見せる。イベリア半島の片隅には印欧語族ですらないナバラなどという国まである。
 これは、ジャレド・ダイアモンドによると、欧州の複雑な地形と支那大陸のなだらかな地形の差異であるという。
 即ち、欧州は急峻なアルプスやピレネー、深いシュヴァルツヴァルト、地中海にバルカン半島と地理的に細々と切り刻まれている。それに対して支那大陸は峻険な山脈に乏しく、黄河や長江はむしろ交通の大動脈として文明の接着剤として重きをなした。
 つまり支那大陸では文明の衝突が起きなかった、ということなのらしい。
 もちろんこれに異論を思い浮かべることはできる。何せ中華帝国の王朝史は血みどろであり、匈奴や蒙古、女真といった異民族に蹂躙されている。だがそれでも中華帝国は中華帝国であり続けた。そして匈奴も蒙古も女真も対等たり得なかった。彼らが支配者になったといっても、それは中華帝国として支那大陸に君臨し続けたのだ。
 だから対等な文明との衝突が存在しなかった。それに比べて欧州は、異なる文明の国家が互いに対等な存在として衝突し続けた。そしてその衝突によって「進歩」がもたらされたのである。
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ファンタジー世界を考える拠り所 [ファンタジー世界考察]

 久々にここに何か書くにあたって記事を読み返してみた。

 ファンタジー世界というものを考えるにあたって色々拠り所、あるいは規範などがあるだろうが、どのようなものになるだろうか。
 私の(つまりこのブログの)それは多分他の人とろくに共有できるものではないだろうが、挙げてみよう。

 重要なのは二つである。


 まず世界の永続性への可否である。

 まったくもってこの観点から設計された、商業的なファンタジー世界などないであろう。
 永続性というのは、ファンタジー世界において「その時代」が永続的に続くかどうかである。過去はいいとしよう。ファンタジー世界であるからには石器時代などなく、それこそインテリジェンスデザインによって造られるわけであるが、それは必然だ。
 だが未来はどうであろうか。許容されるのはせいぜいローマ帝国の歩んだデカダンス、滅亡くらいであろうか。「ファンタジー世界」に啓蒙主義の波が押し寄せ革命により共和国が誕生し民主主義が発生する。別に啓蒙主義時代をベースにしたファンタジー世界も悪くない、というより魅力的だが、しかしファンタジー世界に似合うのはやはりポリュビオスの政体循環論世界ではなかろうか。あるいは支那の王朝史のようなものではなかろうか。少なくとも人権意識に目覚めた民主的冒険者などぞっとしない。
 ファンタジー世界への需要というのは近代の否定にあるのだ。
 いや、それはともかく。私にとってはファンタジー世界というのは「永遠の夢」なのである。その個人的な理由のためだけにファンタジー世界は永遠なのだ。そこにあるのは政体循環論の歴史であり、支那の王朝史の幻影なのである。


 次にリアリティキャラクター性の両立である。これは幾らか他のファンタジー世界とも共有しうるだろう。

 リアリティというのは重要である。物語の説得力が変わってくる。しかし、リアリティの基準というのは人によって異なりもする。

 例えば最低限のリアリティというのがある。火に焼かれれば熱いし火傷する。冬になれば寒い。川の水は冷たい。こんなのは当然で、例えば喉が渇いたという描写があれば何かを飲みたくなるという描写が展開されるのに決まっているのであって、この程度の「リアリティ」はどんな単純な物語でもなされる。
 しかし「より進んだ」描写というのもある。例えば雨が降れば服が濡れて冷たくなる。これは当たり前だ。だが、実際には雨が降ると服が濡れて冷たくなるだけでなく、水分を含んで重くなる。生地によっては固くなる。活動が阻害され、体力を消耗する。しかしまあ、どこまで気にするかは読者の質でもある。

 よくファンタジー世界で取り上げられるものの一つに「ビキニアーマー」なるものがある。現実的に見ればあんなものは金属と皮革の摩擦による擦過で着ていられない。ある質の読者はそのようなことを気にせずビキニアーマーを「ファンタスティックかつ性的なシンボル」として享受できる。
 だが現実的な知識として、革製品の感覚であるとか金属の質感などを知っているのであれば、ビキニアーマーを見てまず「痛そう」という感覚が湧き上がる。予備知識と感性の差である。
 よくこの手の話をすると、「そんな小難しいこと考えないで愉しめばいい」みたいな話をする輩も多い。だが自分勝手な話である。実際、素肌に革ベルトがあたっている絵を見て痛そうか思うかどうかなど、言ってしまえば「人の勝手」である。気にしない輩が気にしないのと同様、革ベルトが痛く見えるのはどう見ても痛く見えるのだからどうしようもない。

 話は大幅にずれたが。

 ファンタジー世界にどこまでもリアリティを持ち込めば幾らでも持ち込める。
 しかし一方で現代文明の徒として、特定の文化を享受するものとしてキャラクター性からも逃れられない。バタ臭い洋ゲーの絵ではやりきれないものがあるのである。
 結局どこかに妥協点を見出すべきなのだが、どこに妥協点を見出すかは個人の差異になる。そしてどこに見出すにせよ、特に作る側に立つのなら、リアリティへの予備知識は妥協しようがない。
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