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ファンタジー世界に淫する JRPGと想像力 [ファンタジー世界考察]

 三月頭、ガストの「フィリスのアトリエ」がおま語解禁されたので購入してみた。どうやら、オープンワールドを目指して作られたものらしい。しかしオープンワールドはガストの開発能力の限界を越えていたらしく……というのは少し措いておこう。
 私が気になったのは絵の綺麗さである。ここでは批判的に書いている。絵が綺麗だから「よくない」のである。正確にいうなら絵が綺麗すぎるのである。
 いってしまえば私が比較対象にしているのはエルダースクロールシリーズ、オブリビオンやスカイリムである。比較対象としていささか無理があるのは承知である。
 主人公フィリスの服が服飾考証的に滅茶苦茶なのはまあいいとしておこう。そんなところまで目くじらを立ててもしょうがない。それにしてもである。絵が綺麗すぎる。街の壁、岩、そういったところが綺麗すぎるのである。模型の用語でいうなら「汚し」が足りない。生活感のなさというのはある程度譲歩(正確には諦めだが)できるとしても、これ以上のリアリティの譲歩が認められるとも思えない。まるで背景のオブジェクトが芝居の書割なのである。
 アトリエシリーズのコンセプトは承知しているつもりである。アトリエシリーズがリアリズムに繋がった質実剛健さなどとは無縁なことは百も承知ではある。にしても、久しぶりに「JRPG」をやってみると(それがアトリエシリーズというのは極端なのだが)文句も垂れたくなる。

 そもそも、ファンタジー世界のリアリティというものはどのようなものなのだろうか。

 JRPG(ここでは貶下的に使っている)とリアリズムというのは特別相性がよくない。日本のRPGの歴史というのはウルティマやウィザードリィなどのコンピューターRPGからはじまっている。TRPGや文藝の影響が相対的にひどく低い。
 当然のことながら当時のコンピューターRPGが再現できる「世界」など限界がある。いってしまえば、コンピューターゲーム的な発想というのは、ストーリーが取り繕えれば他の設定はどうでもいいのである。ドラクエ世界で経済の心配などしなくていいのである。
 その差異は小説版の『ドラゴンクエスト』を読むととてもわかる。著者の久美沙織は最低限の情報しかないファミコンのドラクエを苦心惨憺して現実のものとして描写しているのである。たとえば街と街の間の距離、そこを騎馬で移動した場合の時間、その間に必要な補給。……
 これだけ「破綻」している「ファンタジー世界」なのだが、日本ではそのままコンピューターRPGだけが発展してJRPGを形成した。TRPGは明らかに立ち遅れた。
 結局JRPGたるファンタジー世界が日本のファンタジーのヘゲモニーとなった。ライトノベルとTRPGはそれに追随した。
 前も書いたが、久美沙織はドラクエの経験から、こんな質の悪いファンタジーは一掃される、と述べたのだが、結局悪貨が良貨を駆逐して終わった。

 アトリエシリーズ、というかガストの作品というのはJRPGの中でも特にJRPGらしい発展を遂げた作品群であろう(この文章のJRPGは貶下的な意味ではない)。なので特別JRPGの「標本」としてここであげつらったのであるが。
 なのでここではフィリスのアトリエを特に念頭に置いて書くとする。
 とにかく、絵として綺麗すぎるのが問題である。言い方を変えよう。醜いものがなさすぎるのである。別に主人公やサブキャラは綺麗でかまわない。だがそれにしても汚いところがなさすぎる。いや、あのようなパーソナリティの幼い作品を挙げてもそんなことを書いてもどうしようもない部分はあるのだが、しかしアトリエシリーズが単純なゲームであった時代ならともかく、オープンワールドを志向してしまった以上世界の、書割の「裏」まで見えてくるのである。

 近年、リアリティやらリアリズムを軽視し敵視する風潮があるがごときなのだが、いうも愚かである。だいたい、よく見ていくと、リアリズムを軽視敵視すると称する輩は、実際のところリアリズムにますます隷属してファンタジー世界を受容しているらいいのだ。

 つまり、どうやら、日本のファンタジー消費者は自分の実際的な繋がりがないとますます想像できなくなっているらしいのである。
 たとえば異世界転生ものが人気である。また、現実世界の主人公が異世界に飛ばされて活躍する作品は以前から定番となっていた。
 これは実のところ想像力の欠如と表裏一体であるらしい。つまり、まったくの空想上の世界、この現実世界と断絶したファンタジーへの想像力が乏しくなったので、現実世界とのとっかかりがある、現実世界からの転生や転移が必要になったらしいのである。もはや完全に空想の世界を想像できなくなったらしい。
 しかるにこの現実世界とファンタジー世界との創作上の紐帯をこそリアリズムと呼ぶのである。
 また、ファンタジー世界を「ゲーム的視点」でしか捉えれなくなるという想像力の衰微もある。つまり「ドラクエ的コード」で書かれた「勇者」だの「魔王」だのの物語がしばらく前から流行りだしたが、これはファンタジー世界を「実在的な」世界として想像できなくなったからであり、ゲームの延長線上でしか想像できなくなったからである。
 これなどは久美沙織のいう悪貨が良貨をみごとに駆逐してしまった例となる。

 ここであげつらっているのはあくまでファンタジー世界への想像力についてだけである。いってしまえば、極論しか書いていない。更にいうなら、このブログ自体極論ばかりである。全否定しているのであれば誰が好きこのんでフィリスのアトリエなど購入するであろうか。
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