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ファンタジー世界の文系と理系 [ファンタジー世界考察]

 二日もつまらない廃疾者のたわ言で潰してうんざりされていそうなので少し目先を変えてみる。

 といってもこのタイトルだと二つ記事が書けるのであるが……


 ファンタジー世界の学問というのはどんなものか。基本は自由七科(リベラルアーツ)になるのであろう。自由七科は中世ヨーロッパで一般的な学問だったもので、文法学、修辞学、論理学の三学、算術、幾何学、天文学、音楽の四科をいう。単純にいうと三学が文系で、四科が理系である。これらは哲学、そして神学を学ぶ上で必須とされた。「自由」というのは、自由人の学問とでもいった意味である。
 音楽が何故数学かというと、たとえば和音というものを考えると、それが数学的に構成されていることからわかる。音楽は感性で成り立つものではなく、数学で成り立つのである。
 現代の音楽と天文学はともかく、他の科目は現代の哲学にもつながる。哲学に数学的な論理的思考は欠かせない。
 とにかくも、中世ヨーロッパの学問の中心は神学であろう。ある意味すべての学問は神学に隷属するものであった。
 その他にはどんな学問があったのか。文系なら法学。理系なら錬金術、占星術、医術などがあるだろう。錬金術も占星術も当時の学術水準でいえば立派な学問であった。異端的ではあったが。いわんやファンタジー世界においては、錬金術も占星術も「現実」なのである。
 魔術というのは、神学にも錬金術にも占星術にも通じる。渾然一体となったものなのだろう。


 もう一つの視点の話。現代的な「文系と理系」の視点で見たファンタジー世界について。

 ファンタジー世界について、リアリズム的な観点から文句をつけるのにあたって、理系的(あまりに曖昧な言葉であるが)な観点はそれほど重要ではない。物理法則とかそういう観点から文句をつけるのはあまり意味がない。
 たとえばペガソスが飛ぶのにあの翼では飛べないはずではないか、というような非難はあまり成立しない。風の精霊の力であるとか、神の意志が働いているからとか、そんな回答をすれば済むのである。
 そう、ファンタジー世界というのは、そもそも我々の知る科学では成立していない。四大精霊、神の奇跡、魔術、そういったもので構築されている。いや、そういったものが現実である世界こそがファンタジーなのである。四大精霊の存在に化学や物理の文脈で反論するのがどれだけ無意味なのかは少しでも想像すればわかるというものである。

 しかし文系の知識は大いに役立つ。ファンタジー世界を語る上で経済学や社会学は有効なのである。ファンタジー世界にケチをつけるのに経済学や社会学の知識を動員することは正当なのである。
 何故か。それはファンタジー世界といえども生きているのは同じ人間だからである。ファンタジー世界で、たとえば、飢餓輸出が起きることを「神の御業」とか「精霊の仕業」とか解説することは適切ではない。ファンタジー世界で飢餓輸出が起きたとしてもそれは我々の現実世界と同じ理由からであろう。そしてまた、ファンタジー世界に生きる人間が我々と同じ人間である以上、飢餓輸出は起こりうるのである。ファンタジー世界にギッフェン財のような概念を持ち込むことは妥当なのである。

 ファンタジー世界の物理法則は幾らでも捻じ曲げられる。空を飛ぶのも、炎を吐く竜も、卑金属を貴金属に変えるのも、自由自在である。もちろん無制限なわけでもないが。
 しかし、ファンタジー世界でも人間と社会はままならない。我々と同じ人間が生きているとされているからである。もちろん、工夫すれば、戦争も差別も憎しみもないファンタジー社会の設計も可能かもしれないが、大変困難であろうことは、ユートピア文学の存在を考えればわかるし、大方の読者はファンタジー世界がユートピアたらんと欲しているわけでもない。
 ファンタジー世界も同じ相互理解可能な人間が構成している社会である以上、グレシャムの法則もギッフェン財も存在するのである。
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ファンタジー世界に淫する 書割の向こう側へ [ファンタジー世界考察]

 昨日は偉そうに書いたが、しかしたとえば作家が「自分の作品が売れないのは読者の想像力がないからだ」などと嘆くのがいかに馬鹿馬鹿しいか想像すると、馬鹿な記事ではあった。
 昨日も書いたようにここに書いたのは極論である。

 JRPGの絵面が綺麗すぎると書いたのだが、それは別に純粋にイマジナルな領域におけるものだけではない。つまり、JRPGは清潔すぎるのである。といってもトイレが完備されているとかそういう話ではないが。
 まあ実際昨今の出版状況を鑑みれば当然ではあるのだが、たとえばファンタジー世界なのに売春婦とか犯罪とか貧民街とか阿片窟とかが欠けている。そういう意味で清潔すぎる。もちろんまったくないわけではないし、匂わせているものはある。しかしどこか胡散臭い。
 結局こういう問題に行き着くのだが、現代のファンタジー世界にはユダヤ人やジプシーや癩病患者のような要素を盛り入れるのが困難なのだ。これらは中世ヨーロッパの話をするのに無視できない。もちろん直接こんなものを描写するわけにいかない。それでもエルダースクロールシリーズなどをみるとアルゴニアン(蜥蜴人)やカジート(猫人)などがどこか似たような役割を演じていて、匂わせている。


 しかし何故また私はこうもリアリズム気違いなのか。
 一つには私がファンタジー世界に淫していたそれが最もひどい時期に接触していたのがTRPGだったからというのもある。もっとも、実際にプレイしたことはなく、ルールブックやリプレイやシナリオ集を読んで憧れていただけだったが。

 小説とか、コンピューターRPGの場合、実のところ世界の設計など、リアリズムのあり方など、芝居の書割で十分なのである。創作物として伝えたい「何か」(基本的にはストーリー)さえ整っていれば、あとはどうでもいいのである。感動的なストーリーの前には多少の世界の矛盾など綺麗に流されてしまうであろう。
 ところがTRPGの場合そうはいかない。ゲームマスターにせよプレイヤキャラクタにせよなにをするかわからない。別にダンジョン潜って敵を倒すのだけがシナリオであると決められているわけではない。ちなみに私がソード・ワールド2.0を嫌っている理由の一つは世界観の設計段階でシナリオの内容をダンジョン潜りに限定しようという設計者の意図を感じてのことらしい。閑話休題。TRPGの観点でいえばシナリオはかなり自由である。ゲームマスターの裁量次第であり、プレイヤキャラクタは比較的自由である。無論プレイヤキャラクタが「ドラクエ的発想で」他人の家に入り箪笥を物色などしたらルンルンと牢屋行きであるが。まあ閑話休題。
 ゲームマスターは別にダンジョン潜りのシナリオしか考えてはいけないわけではない。たとえばプレイヤキャラクタが立身出世すれば騎士に叙爵されることもあるだろうし(そこまで出世したら引退かもしれないが)、そうではなくても社会的地位が上がって国王から依頼を受けるかもしれない。いや別にそこまで出世せずとも、商人などがからむ仕事を受けるかもしれない。つまり、そういうところで、政治や経済に触れる可能性があるのである。宗教などはなおさらである。聖職者のでてこないファンタジー世界などないといってもいい。パーティの回復薬といえば聖職者である。
 つまり、特にTRPGの文脈で考えるなら、モンスターとマジックだけ考えてファンタジー世界を作って済むわけではないのである。
 それかあらんやソード・ワールド(無印)は後日、世界観を補填するためにかなり量の多い設定資料を出版している。もっとも、ここで書いたような社会的側面はメインというわけではなく、幻獣の生態などといった分量も多いのだが。

 ただ私がファンタジーでリアリズム気違いになるのはTRPGだけが理由でもないらしい。そのことについてはまた今度。
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