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ファンタジー世界と架空の地図 [ファンタジー世界考察]

 伊集院光のラジオを聞いていたら、プロ「架空地図」士という人物がゲストで出てきて、驚いた。

 おおよそプロに限らずクリエイターというのは空疎な存在になる危機をはらんでいるものであるが、プロ架空地図士などというのは極めつけにその存在が、あまりに空想という世界に根ざしたもので、現実的な価値のあやふやなものである。
 クリエイターというのは基本的に求められるのは「ストーリー」である。何故人々が架空のコンテンツなど欲しがるのか。基本的にストーリーのためである。何か心に響くお話を聞いたり、あるいは知的興奮を求めて人々はコンテンツを求める。
 しかるに、架空地図というのは極めつけにストーリーが存在しない。そこにあるのは空想の事物だけである。架空の事物だけが存在し、中身などない。
 それがクリエイターのジャンルとして存在するのだから、しかもプロなのだから、驚きである。
 たしかに、森田一義のような人物が極めて知的興奮を覚えていたようであるが、それにしても、あるいはそこまでのものになるのだから、驚きである。


 ファンタジー世界を創造するにあたって、地図というのはほとんど必須である。創られたファンタジー世界の地図。世界そのものを創造するのだから、地図は必須だ。
 私も、高校の現実逃避時代、ひたすらファンタジー世界の地図を描くことで、その世界の実在性をなんとか保障しようとし、確固たるものとし、その世界に遊ぼうとした。

 地図というのは、描いてみるととても難しいことがわかる。
 ヨーロッパ風ファンタジーであることだし、実在のヨーロッパ大陸を念頭に置いてなんとか描こうと思うのだが、難しい。これは図像的に難しいというだけではない。私は一応元美術部なので図像的にはそんなに問題ではない。

 難しいのは、地学的、地理的に難しいのである。

 まず、大陸というものを描いても、素人知識では島みたいにしかならない。中央に山脈などを設定しても、山脈の北、山脈、山脈の南、それで終わってしまうのである。川を描いても、せいぜい山脈やら山地から出て海に流れるだけである。あるいは日本人的な発想の乏しさなのか、描けるのは「川」だけで、「河」が描けない。
 平原とか盆地とかも難しい。イタリア半島などはある程度わかりやすいので、まだいいのだが、たとえばパンノニアの平原などは難しい。だいたい、なまじ海で囲おうとするから、内陸部を作るのが難しいのである。
 特にヨーロッパ大陸は山脈も平原も河川も豊富であり、味わい深いものがあるのだ。

 それにファンタジー世界の地図であっても、政治や経済と大きく関わりがある。歴史もだ。歴史的にどの国が、都市が影響力を持ったのか。何故このような国境が引かれたのか。経済的中心は、物資の集積地はどこか。産物の、鉱石や農産物の産地はどこか。それらはどのように流通しているのか。その結果どのような国家が存在しうるか。……


 しかしそれにしても架空地図である。

 架空地図というのは、そもそもは何かしらのコンテンツの副産物であって、それ自体独立するというのは想像がつかなかった。
 たとえばロードス島戦記ならロードス島(架空の方の)の地図が載っており、それによって小説の理解を深めるわけである。
 しかし、プロ架空地図士というのは、地図だけであり、地図単体で商売にすらなっているのだ。

 ちなみに、伊集院光のラジオに出ていたそのプロ架空地図士というのはあくまで「現実世界」の架空地図を描くのであって、「ファンタジー世界」の地図を描くわけではない。
 つまり、架空の、たとえば「海羽空市」の地図を描くわけであって、架空の「なんちゃらワールド」の世界の地図を描くわけではない。

 地図を描くのは容易ではない。地理、地学、そしてその周辺の社会的事象を知悉しなければ描くことはできない。
 なにせあの森田一義が知的興奮を覚えるような架空地図である。


 架空地図で驚きなのは、単一のコンテンツとして存在できるだけの、いやそれ以前に、架空地図という存在そのものの、純粋な想像性である。

 前々から書いているように、小説や漫画やアニメのファンタジー、架空性など、シナリオの表面を取り繕えれば、どうでもいいのである。ストーリーさえ読者の心を掴めるのなら、多少世界の想像力に破綻をきたしていてもなんの問題もない。
 実際、この世界が現実に存在していたら、地理学的に、生物学的に、社会科学的に破綻するであろうような創作世界などたくさんあるだろう。
 TRPGの世界などは、この問題をある程度クリアする必要が生ずる。TRPGの世界は、ストーリーそのものを供給するわけではない。その世界を舞台として、「いかなる」物語でも包摂できるように、少なくとも名目上、そう創られる必要がある。GMがどんなストーリーを作ってもいいように。だからTRPGの世界は独立性と十全たることを求められる。だがそれにしても、破綻をきたしそうな世界はいくらでもあるし、プレイアビリティを基本としてその世界の独立性を、犠牲にしたりあるいは無視する事象はあるだろう。

 しかし、架空地図は違う。
 小説や漫画やゲームの世界も、TRPGの世界も、何かしらの目的のために、ある程度折り合いをつけて世界をデザインされる。
 しかし、架空地図はそうではない。世界のデザイン、地図、その事象そのものが目的である。その地図という確実な事象そのものが十全でなければならない。地図に描かれた世界は完全でなければならない。川があるなら、その源流も河口も存在するものとして設定しなければならない。鉄道も、駅も、道路も、その街に、街の規模に合ったものでなければならない。街はその経済力、生産性、居住性、それらをすべて考えて想像され、地図に描かれる。だからこそプロの架空地図士が存在し、森田一義のような人物が感嘆する。


 私がファンタジー世界について懇懇と訴えているのは、まさにこれである。
 私にとってファンタジー世界は確実に、遺漏なく存在しなければならない。それはそもそも、世界そのものの想像が目的であるからである。物語は二の次なのである。世界は完全で完璧でなければならないのだ。
 架空世界の創造を目的としている私にとって、だから、この架空地図の存在は非常に新鮮な驚きであったのである。
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ファンタジー世界の科学とか発明 メモ程度 [ファンタジー世界考察]

 ここのアクセス解析を見るとCardWirth関係の記事へのアクセスが多いのだから、胡乱な知識に基づいたいい加減なファンタジー世界の考察など書かないでCardWirthのシナリオ評価なりリプレイなり書けば良いとは思うのだが、グラフィック周りの不具合でCardWirthのプレイに時折支障があるのもあるし、特別私もCardWirthを毎日やりたいくらいはまっているわけでもない。

 なによりそれより、私はそろそろ次の小説を書く算段でもしないといけないのだが、さっぱり手を付けていない。想像力がさっぱり働かない。しかも最近ろくに小説を読んでいない。物語というものから遠ざかっている。最近読んだのは軍事史の本とか澁澤龍彦のエッセイとかばかりである。
 そもそも物語より事物の好きな私に小説などまともに書けるのかと思わないでもない。私は特別物語をたくさん読んできたわけでもないように思える。本の虫というのでもないし。


 科学雑誌で記事を見かけたのだが、地球温暖化によって航空運輸業界が打撃を受けるそうである。
 地球温暖化により空気が熱せられ膨張する。つまり密度が低くなる。すると、飛行機に必要な揚力が発生しにくくなる。揚力というのは翼によって空気の密度の差異を作り出し、生まれるからである。そうなると滑走路を長くしたり、貨物量を減らすなどしないと十分な揚力を生み出せない。だから航空機で運べる荷物や人員が少なくなり、滑走路も延長しないといけない。
 地球温暖化の影響というと、人々が真っ先に思い浮かべるのは海水面の上昇とか、極地の氷が溶けるであるとか、あるいは最近なら強大な台風やゲリラ豪雨などでろう。航空運輸への影響はあまり考慮されていなかった。

 人間の想像力というのもそんなに遠大なものではない。
 たとえば、毛沢東の大躍進政策では、穀物の生産躍進のために穀類を食べる雀を駆除したり、種子を地中深く埋めると植物の根が育つというルイセンコの提唱したミチューリン農法が行われたり、製鉄量のノルマを課したりした。これらの「浅い思慮」が何をもたらしたかは誰もが知っている。雀についていうなら、雀というのは植物だけでなく、植物に害をなす虫も食べるので、雀の駆除は害虫の天敵を駆除しただけなのだ。お陰で虫の害がひどくなり凶作となった。
 安い想像力というのは雀を駆除すれば農業への害が単純に減ると思うのと同じである。

 ファンタジー世界というのも、安易な設定などを出しても大躍進政策の雀と同じで、実際行ってみたら少なくともシミュレートの段階で、割りと容易にボロが出るのではないかと思える。
 当たり前といえば当り前であり、一般的にファンタジー世界に求められるのは「素晴らしいストーリー」であり、別に科学的シミュレートのために人々はファンタジーを楽しんでいるわけではない。
 だからそんなものを気にする必要はないか、というとあまりに浅薄な設定は世界自体のリアリティを損なう。といったところで、その敷居は限りなく低い。なにせ現代世界が舞台であっても車に強化ガラスがはまっていない。そして人々は窓ガラス程度でリアリティを損なわれたりしない。
 それでも田中芳樹などは中世ヨーロッパ風の世界で数万人の兵士を動員するために苦心惨憺し、結果ジャガイモを中世ヨーロッパ風世界に登場させている。しかし凡百のファンタジー世界には普通にジャガイモは登場するだろう。

 前にファンタジー世界の社会科学と自然科学について、自然科学はある程度魔術や神の奇跡を介在させられるが、社会科学はそうもいかないと書いたものの、かといって自然科学が自在に改変可能となるわけでもなかろう。


 前にファンタジー世界で社会の発展、中央集権化や軍事革命や資本の蓄積が起きないのは、いわゆるモンスター、ゴブリンやらオークやらが社会を断続的に破壊するから、という仮設を書いたが、それとて実際的にどうであるかはなんともいえない。シミュレートといったところでこの胡乱な脳みそでできることなどすぐ限界に達する。


 ついでにちょっと発明について。

 人類の発明史というのは色々と奇妙な過程を辿っている。
 たとえば文字というのは、完全に独自に発明されたケースが、三つか四つしかない。シュメルの文字、漢字、マヤ文字など、これくらいしかない。エジプトの文字などはシュメルの文字とは系統が違うが、シュメル文明の文字という概念に触発されて発明されたのだとされている。シクウォイアのチェロキー文字と同じである。
 ねじというものは、中華帝国やその近縁の東アジアでは発明されなかった。中国で発明されなかった唯一の機械だとすら呼ばれている。
 アナログ計算機、蒸気機関、印刷といった発明は古代ギリシアでなされていた。アンティキティラの機械やアレクサンドレイアの蒸気人形やファイストスの円盤などのことである。しかしこれらの発明はその後の文明にまったく受け継がれなかった。
 つまり、発明とか文明とかいうものはすべてがシヴィライゼーションのテクノロジーツリーみたいにいくわけではないのである。

 だからファンタジー世界にしても、発明とか文明とかを考えるにしても限度があるし、逆にそこにつけ込む余地も生まれる。
 アレクサンドレイアの蒸気機関が受け継がれたファンタジーだって想像可能ではあるのだ。
 だが、かといって産業革命を起こすためには資本の蓄積という問題も発生する。

 そこまでファンタジー世界で考える必要があるのか、ないのか。
 その回答は知らない。
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ファンタジー世界のストーリーテリング [ファンタジー世界考察]

 実のところここのアクセス解析を見ると、CardWirth関係の記事の方がアクセス数が多いし、CardWirthで特定のシナリオ名で検索するとここが割りとトップに来てしまうので、アクセス数を求めるのならCardWirthの記事を書く方がいいのだが、しかし今はPCの調子が悪いのでCardWirthそのものをプレイできない。
 文句をつけることではないが、このブログはSEO的に良好過ぎる。金貨や銀貨の価値もろくにわからないのにこんなブログが検索トップにきても誰の益にもならない。CardWirthだって短い紹介しかしていない。アクセス数が多いと喜びはあるが、申し訳なくもある。


 ストーリーテリングなどというが、大した長編小説も書けなければ、TRPGやPBWのGM経験も大して積んでもいない私が偉そうに書くこともないし、書くのもおこがましいとは思っている。
 なのでこの記事は多分なんの利益にもならない。私にとっても。

 レクリエイターズを見ていると、いまいちシナリオが面白くない。正直なところ。どうも、わかりきった結末に到達するためにシナリオを消化するために逐次的に展開しているだけに思える。

 ただ、特にファンタジーもののシナリオはそういう傾向はある。これはファンタジーの源流たる神話の構造とも関わるようにも思える。

 よく、特にMMORPGなどで、お使いシナリオというのが非難される。要するに、ここに行って誰にこれを届けろ、という依頼を延々されるだけのシナリオということである。
 ただ、お使いシナリオ自体は特にファンタジーでは基本である。

 ファンタジーというのは、だいたい、結末がわかりきっている傾向がある。重要なのは、そこに至るまでの道程をどう先延ばしし、描くかである。
 ドラゴンクエストなどというのは、それが視覚化されている。目的は目の前の竜王城である。しかしそこに行くには延々とお使いをさせられる。それだけのゲームシナリオなのである。大雑把に言えば。目的は竜王を倒すことだけである。いや、一応姫の救出もあるのだが。
 結局、ドラゴンクエストのシナリオというのは、竜王城への道のりをなるべく引き伸ばし、そしてそれをもっともらしく見せるだけのものなのである。ドラゴンクエストの「クエスト」とはそういうものなのだと思う。

 といっても、別にそれを批難するつもりでも否定するつもりでもない。
 TRPGだってそうである。冒険者の日常というのも、延々とゴブリン殴り倒すだけの日々だっていいのである。あるいは隊商の護衛を延々と。TRPGは実のところそれだけでも楽しい。あまりシナリオにすごいシナリオ性は必要ない。ロールプレイ自体が楽しみなのだから、シナリオはそんなにリッチでなくてもプレイヤーは楽しめる。
 ただ、コンピュータRPGはロールプレイわけでもない。アニメでも漫画でも小説でも、コンピュータゲーム以下のインタラクティブ性なのだから、当然それでは満足できない。PBWの安いシナリオにそれなりの金を人々が支払うのも、自分のキャラの活躍が楽しいからである。

 神話にその由来があるというのは、つまり、神話の英雄譚というのは、神々が英雄を成長させていくために試練を与えていく過程なので、英雄たちは神々から与えられたクエストを淡々とこなしていく。
 つまり、英雄の玉座に至るまで、資質を証明するために延々と同じような試練を課せられる。

 ゲームに戻ると、漫画や小説や、あるいはコンピュータゲームはどうしてもストーリーリッチが必要なのは、逆にいうとTRPGやPBWがそこそこチープでも楽しいのは、ロールプレイの有無にある。小説では、幾ら優れた作品でも、自分自身を完全に主人公に反映できるわけではない。


 だからどうしたといわれると、別に、ただそれだけの話ではあるのだが。
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ファンタジー世界の宗教と修道院 [ファンタジー世界考察]

 話の枕を何か用意していたのだけれど、忘れてしまった。

 ファンタジー世界のマジックアイテムについて一文書こうと思ったのだが、たとえば資料(まあ正直Wikipediaだけれど)にリーヴルと書いてあって、それがそもそもどのような単位かわからない。調べると銀貨と思われるが、それが今の貨幣価値で幾らくらいになるかもよくわからない。
 このブログでは以前に、銀貨は100円、金貨は20万円、と偉そうに書いたが、どうもそれも正確といえるかわからない。いや、「ファンタジー世界の銀貨と金貨」はだいたいこれでもあっているのだが、「中世ヨーロッパ」となるとどうだか。調べるとフィオリーノ金貨は12万円くらいだという。ただ、20万円の根拠であるデュカート金貨は24金で、フィオリーノ金貨は18金らしい。
 ここでは偉そうに書いて、SEO的に検索上位にヒットするが、ここの情報など斯様に胡散臭いのであるから、留意されたい。


 今日は修道院のことを少し書く。……

 そもそも日本人は修道院にあまり馴染みがない。シスターの服はそれなりに有名だが、それくらいである。修道院組織は学校法人運営していることも多いので、日本人にはそちらのイメージが強いのかもしれない。
 日本で有名な修道院というと函館のトラピストやトラピスティーヌかもしれない。トラピストの方は厳格な修道院であり、観想修道会と呼ばれるキリスト教でも少し特別な、厳格な修道院ではある。徹底的な禁足地となっており、自由に中に入れるわけでもない。バターやクッキーは有名である。トラピスティーヌの方は、同じ観想修道会であり厳格な修道院なのだが、割りと観光地化している。もちろん、内部には入れないのだが。

 だいたい、日本ではやはりキリスト教はマイナーな宗教ではある。それに、キリスト教文化圏に全体的に馴染みはないし、一神教の「臭い」を知っているわけでもない。

 日本のネトウヨは、イスラームのテロなどが起きると、一神教つながりでキリスト教まで不寛容だのなんだのと難癖をつける傾向があるように見える。で、一応多神教である神道などを褒めるのだが。
 かわいそうなことに、ネトウヨに大人気の麻生太郎などはカトリックである。麻生太郎は首相在任時、アクィラサミットのついでにローマ教皇に拝謁したのだが、この瞬間こそ麻生太郎は個人的に首相となったことを神に感謝したのであろう、などと思っていた。他にも大平正芳は聖公会の信者であり、吉田茂は実質的にカトリックであった。洗礼は受けなかったが。もっとも、ネトウヨにとって吉田茂などは売国奴になっている可能性もあるが。
 そもそも彼らが支持する安倍=日本会議もキリスト教右翼と結びつきが強い。安倍が勝共統一教会で壺を売っていたというアンサイクロペディアの書き込みは眉唾だが、日本会議には統一教会も賛同している。表現規制も主体だったのはキリスト教右翼フェミの矯風会であった。松文館裁判など見ても右派と警察が表現規制の主体であった歴史が見えるが、近年サヨクがフェミつながりで表現規制に肩入れしているので、すっかり矯風会や生長の家や親学の連中が規制派だったことが忘れ去られている。

 話が大きくずれた。ここでは政治の話などしたくない。

 ファンタジー世界はたいていの場合、多神教の世界ということになっている。一つには、私の推論だが、ファンタジー世界を作ったキリスト教文化圏の人間が、キリスト教から逃避するために作ったのがファンタジー世界だからではないかと思っている。男がジェンダーフリーを目指して百合に走るのと同じである。
 これに、古代ローマや古代ギリシアなどへの憧れや、あるいは「蛮族」として暮らしてきたケルトやゲルマンの民への郷愁めいたものなども混じるのであろう。というかそちらが主体か。

 ではかといって修道院の存在を、中世ヨーロッパ風ファンタジー世界で無視していいかというと、そうもいかない。中世ヨーロッパ世界において修道院は、特に観念の面で非常に大きな、強い存在であった。修道院のない中世ヨーロッパ世界など想像できない。だから中世ヨーロッパをベースにする以上修道院は無視できない。
 中世ヨーロッパでもっとも技術と知性が発達したのも修道院である。大学などではない。修道院は知識の集積所であった。活版印刷のなかった中世ヨーロッパでは、図書の「生産」は筆写によるしかなく、そして筆写の最大の拠点が修道院であった。ファンタジー世界における活版印刷や紙の仮想的発展は世界観をそれを不要にするかもしれないが、中世ヨーロッパらしさは修道院なしでは語れない。
 修道院で技術的発展が見られたのは、その技術を開発する、あるいは発明の余裕を与える経済的基盤があったからだ。修道院には俗界領主からの寄進があったが、俗界領主と違い相続で分割されることがなかったため、財産は増える一方だった。
 観念的に修道院は重要である。その精神構造にはユートピア的なものが見られる。修道院の時間は永遠である。修道僧達は永遠の祈りを、俗界から断ち切られた祈りの場で送った。今日も、明日も、明後日も、永遠に彼らは祈りを続ける。機械式時計が修道院で生まれたのは偶然ではないと澁澤龍彦は述べている。祈りの時を計り、告げるのが機械式時計の役割だ。機械式時計の盤面はユートピア的である。針は永遠に盤面を回り続け、終わりがない。時計の針は永遠に回り続ける。
 もっと世俗のことをいえば、酒は修道院の文化であった。坊主というと俗界の楽しみから切断されて酩酊するなどもってのほかと日本の感覚だと思われるが、そもそもヨーロッパは水が飲めたものではない。修道僧達は飲料にするためにも、労働の成果としても、酒を造った。ビールやエールに必須のハーブは修道院の秘密でもあった。蒸留酒も修道院で生まれた。かのマルティン・ルターなどは、ビールを飲むと天国が降りてくるなどと述べている。ワインもリキュールもビールも、今の時代だって修道院で作られている。
 それに騎士団というファンタジー世界でおなじみの組織も修道院のものである。騎士団は、十字軍の際に聖地巡礼を行い、巡礼者を助けるために結成された「騎士修道会」が元々の存在である。現代でも活躍しているマルタ騎士団、聖ヨハネ騎士団は十字軍で巡礼者の病気や怪我を治癒するための医療組織としてスタートした。だから聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団とも呼ばれる。だいたい、騎士団は日本で思われているような軍事組織というわけでもない。元は修道会であるし、その後それを模倣して作られたのがガーター騎士団や金羊毛騎士団やドラゴン騎士団のような世俗騎士団であるが、これらはせいぜいが上流階級の社交クラブのようなものである。


 しかしまあ、キリスト教文化圏と、日本とでは文化的断絶は大きく、その最大の所以がキリスト教などの一神教にあるようには思える。
 いや、ギリシアやローマは多神教で、たとえば一神教が目の敵にした同性愛なども盛んに行われていたが、それでもそれが日本の文化と親和性がどれくらいあるのかはわからない。塩野七生などは古代ローマと日本の類似点を様々挙げているが。

 たとえば、私はここでJRPGを、絵面だけが綺麗とか、アニメチックにすぎるとか、そんな切り口で取り上げているが、JRPGとキリスト教文化圏のRPGの差異は一神教への親和性に所以するウェイトも大きいという。つまり、神というものへの考え方である。
 JRPGは、たとえば女神転生シリーズに見いだせるように、特に真・女神転生のLOWサイドの描き方に見られるように、割りと神に対して普通に叛逆する。なんなら、一神教の神を思わせる「神」なる存在が色々と裏で陰謀を巡らせている、すべての(主に悪の)黒幕である、というのが根強い。これは日本で特別発展したものだともいう。ラスボスがヤハウェなどというゲームは日本ならではとも思える。いや、今ラスボスをヤハウェにする度胸がセガにあるとも思えない。まあ、真・女神転生シリーズなど明らかにキリスト教の天使が今でも割りと悪の側に立っているが。

 別にラスボスにヤハウェを持ってきたり、神がすべての悪の根源とかいうのも、個人的に問題とか間違いとも思っていないし、なんなら好きでもあるが、しかしそれは一つの、大して厚い根拠をもった視点というわけでもない。確かに古代でもグノーシスの教えなどは神を悪と見做す思想であった。しかし軽々に中世ヨーロッパを同じ視点で見るわけにもいかない。カトリック教会についての、そういった日本的な見方を通した中世ヨーロッパ観、というかそれを元にした中世ヨーロッパ風ファンタジー世界の信仰のあり方は、かなり薄っぺらく見えることが多い。上述のネトウヨくらい軽率である。


 中世ヨーロッパ風ファンタジーだから修道院が必須であると述べたりはしないが、それに配慮していない世界の、特に宗教の面は、しばしば軽薄に見える。
 中世ヨーロッパ、もっというなら「未明の世界」における信仰というものの存在を軽く見ていることが多いように思える。日本は宗教というと今の半分無宗教状態が通常に思えるから、過去の神道や仏教、また神仏習合にすら理解が足りていない。日本の神道、仏教、神仏習合などを近代的な視点でしか理解し得ていない。キリスト教などは尚更である。日本で宗教などというと、新興宗教のことしか思い浮かばない人間も多いかもしれない。
 軽々にファンタジー世界の住人が宗教に叛逆するとは思えない。それはあまりに現代日本的価値観にも過ぎる。


 キリスト教文化圏と、日本の文化で大きな差異を見せるのは、宗教の陰画たるエロティシズムの分野かもしれない。だが、それを書くにはここの余白は……いやもう疲れたというか。
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戦略、百年戦争、コーエー [歴史]

 最近のスマホゲームの謳い文句で、そこそこ聞くことがあるのが、「戦略的バトルを楽しめる」というのがある。しかしそもそも戦略とバトルは違うものであり、英語でいうならTierが異なるものであり、こんな言葉は成り立たないように思える。まあ相変わらず下調べとかしていないのでいい加減な知識に基づいているから保証できないが。

 今日はその話をしたかったのか、それともコーエーテクモ、の中でも特にコーエーのゲームを批判したかったのか、よくわからない。


 戦争には幾つかのTierがある。日本語だと順序とか序列とかいう言葉になるだろうか。和訳しにくいので最近の洋ゲーだとTierのままにしてあることが多い。

 戦争の最小単位は戦闘である。バトルである。これは要するにいかに銃弾を敵兵に当てるか、とか、敵戦車にいかに歩兵が肉薄するか、といったような内容である。あるいは剣を振るうとしてどこを狙うか、攻撃をパリイすべきか、躱すか、なんてことでもある。
 ゲームでいえばFPSにあたる。

 その次が作戦である。部隊をどう動かすか。艦隊をどのように運動させるか。艦載機の発着はいつ行うか。そういう個人ではないレベルのお話である。
 それと戦術がある。戦術と作戦を明確に分けるのはここでは面倒である。いや、違いはあるのだが。
 たとえば、対馬沖海戦で見ると、対馬沖を戦場に設定したことも作戦であるし、トウゴウ・ターンは戦術である。ネルソン・タッチも戦術であるし、フリードリヒ大王の内線作戦は内線作戦というくらいだから作戦である。カンナエの戦いでのハンニバルの機動は戦術である。
 作戦はプランニングであり、戦術は具体的な手法である。

 その上にあるのが戦略である。戦略は多くの分野を包括するから意味が拡大してきた。
 対馬沖海戦でいうなら、日英同盟や、半ばロシア帝国での諜報活動でドッガーバンク事件を発生させたことも戦略である。あの海戦はドッガーバンク事件を起こして大英帝国の反露感情が膨れ上がった時点でそもそも戦略的に決着がついていた。トウゴウ・ターンはそれにとどめを刺しただけの話である。
 七年戦争でいうなら、フリードリヒ大王は開戦した段階で戦略的にあまりに不利であり、それを大王の優れた戦術、外交的幸運、それと大英帝国の植民地戦争などの要素でひっくり返した。ナポレオンはロシアに進攻したその戦略自体がもはや敗北であったし、それをいうなら大陸封鎖令が戦略的敗北であった。大東亜戦争などは最初から戦略的に負けていた。

 ただ、戦略という言葉は、ビジネス用語として定着したためカッコイイと思われているため、この言葉が濫発されて、「戦略的バトル」なる言葉が生まれたのだろう。
 スマホゲームの戦略とやらは、実のところ金と時間の管理のことを指す。いつイベントにどれだけ参加して、無料通貨をやりくりしつつガチャにどれだけ金をかけるか。それがスマホゲームの戦略である。だいたい、ストラテジーゲームなんてスマホゲームにあまり見かけないし。ちなみに軍事用語でいうなら、ガチャのためにどれだけ金を用意するかは兵站ともいえよう。


 戦略的勝利と戦術的勝利は必ずしも一致しない。
 戦術的に勝利しても戦略的に負けることはしばしばあるし、その逆も存在するかもしれない。

 戦術的勝利が戦略的勝利をもたらさない、大きな例証というか、故事としてあるのが「ピュロスの勝利」である。戦術的には勝利を収めたのに、割に合わず、最終的に負けてしまった、古代ローマとマグナ・グレキアの、傭兵として雇われたエピロス王ピュロスの戦争のことである。ピュロスは三度ローマに勝利したが、犠牲の大きさもあり、何も得られなかった。
 三十年戦争のリュッツェンの戦いなどは、スウェーデン軍が勝利したが、肝心の指揮官であった国王グスタフ・アドルフ2世が戦死したのである。


 戦術的にろくに勝てなかったのに最終的に勝利を収めた戦争としては、百年戦争がある。
 フランス軍は、クレシー、ポワティエ、アザンクールと、戦史上に残るといってもいい大惨敗を重ねている。しかし最終的に勝ったのはフランスである。
 フランス王国が最終的に逆転したきっかけになったのはオルレアン包囲戦であるから、あのジャンヌ・ダルクが大きなウェイトを占めていると思われかねないが、しかしフランス王国が大惨敗にもかかわらず持ちこたえたのは、外交と内政の結果である。
 シャルル5世も、シャルル7世も、フランス王国に勝利をもたらしたが、彼らは軍事的には有能ではなかった。陣頭に立って戦いもしなかった。銀河英雄伝説ではやたら陣頭に立つことが偉いという価値観で貫かれているが、フランスの国王達はあまり陣頭に立つ伝統はない。それでも様々な勝利をもたらしてきた。歴代フランス国王はむしろ戦争下手が多かったように思える。聖王ルイ9世などはやたら異教徒相手に戦争をしていたが、軍事的才能はさっぱりだった。
 ではフランスの国王達は何をしたのか。戦争をするための金を調達したのである。戦争は金である。兵士でも英雄たる王でもない。軍備を整えるための金である。絶対君主達は何度も破産しているが、ほとんどは軍事費のためである。
 特にシャルル5世などは「税金の発明者」として知られている。中世ヨーロッパでは間接税しか存在しなかったが、彼は竈税という形で人頭税、つまり直接税を徴収した。これは彼の父王が、ポワティエの戦いで捕虜となり、その身代金を調達するという名目ではじまったが、恒常化した。
 プロイセン王国が国力に似合わないまでの精強な軍備をなしえたのも税金のおかげである。ヴィルヘルム・フリードリヒ大選帝侯が他のすべての特権を貴族に明け渡してまで手に握った徴税権が軍事費の源となったのである。



 最後にコーエーのゲームを批判して終わりにする。

 コーエーの歴史シミュレーションゲームは、基本的に人物中心主義で、武将単位ですべてが進む。武将は大まかに分けて二つのパラメータを持っている。軍事と内政である。他にもあるが目立つのは軍事と内政である。
 しかしまあ実際のところ、コーエーの歴史シミュレーションゲームは軍事偏重主義である。軍事の高い武将がいればだいたい勝てるし、逆に軍事の高い武将がいなければ、どれだけ内政の高い武将がいても勝てない。

 コーエーのゲームの内政は単純極まりない。建物を建てるだけである。あるいは耕作地を広げるだけである。そして、内政というパラメータは、せいぜい、この建物を建てるスピードや効率をあげるだけなのである。それは高いほうがいいだろうし、非常に低い武将は内政の役に立たないが、しかし別に高くてもあんまり意味がない。羽柴秀長や石田三成のような武将も、利点は建物を建てる速度が上がるだけなのである。

 なんで上で百年戦争の話などしたかというと、実際の歴史では、軍事よりも内政のほうが重要だといいたいわけである。
 それは、内政を整えなければいかに信長の野望でも大軍を揃えるのは大変なのだが、それでも内政といっても建物を建てる速度がせいぜいなのである。

 逆に軍事は偏重されている。ひどい話、敵に軍事が90以上の武将がいたら、80以下の武将に大軍を率いさせてもさっぱり勝てない。昔は特にこの傾向がひどかった。軍事90あればどんな大軍でも敵の軍事が80以下であればどんどん敵の大軍が溶けていった。
 最近のゲームではこの傾向は緩和されつつもある。
 それに、実のところ洋ゲー、ヨーロッパユニバーサリスなどは、数ばかりで、軍事的に逆転する要素がほとんどない。洋ゲーは基本的にこの傾向は高く、多くの場合数を揃えれば倒せる。
 だからコーエーのゲームで、少数の軍隊でも勇将や作戦次第で逆転できること自体はよいことだとは思っている。
 しかし、それに比べて内政が建物を建てるだけというのはいかにも寂しい。

 逆にクルセイダーキングスなどは、軍事的に強くてもなんともならない。内政、というより配下の貴族たちへの外交をうまく切り抜けなければ内乱祭りになる。
 クルセイダーキングスは封建制度の雰囲気を比較的うまく再現しているとされている。だからそれを日本の封建制度にも当てはめて、戦国MODを作ろうという試みはあり、そしてパラドックスもSengokuというゲームをリリースしたが、残念ながら評価は芳しくなかった。
 日本だって、大名が苦心したのは配下の武将たちの取り扱いであった。信長の野望では論功行賞など存在しないに等しいが、元寇の後に論功行賞で鎌倉幕府が失敗したように、武士社会で論功行賞は最も苦心したところなのである。今の信長の野望では、たとえば丹羽長秀が上野一国より茄子茶入の方が欲しくて悔しがったなんてことを再現できない。

 コーエーのゲームは、そもそも、不評続きである。最近で評価が高いのは信長の野望創造だけである。それでも、あそこは殿様商売で、一万円近い定価で売りつけてくる。しかもその一万円も未完成品で、多くの場合パワーアップキットが出て初めてそのゲームが「完成」されると評されている。もはやパワーアップキット商法という言葉すら存在する。
 それでいて不評ばかりである。三国志シリーズなどいい話をまったく聞かない。信長の野望も創造までは酷評ばかりであった。コーエーのゲームは二度と買わないなんてレビューは幾らでもある。

 しかしそれでいてコーエーは強気でもある。BGMとか海外のオーケストラを起用している豪勢っぷりだし、武将の顔グラフィックなど実に豪華である。だから一万円近い価格を提示できるのだろう。
 それでも、こうも不評続きでよく保つものだと思える。

 一応コーエーも地位にあぐらをかいているだけのわけでもない。たとえば、最近の信長の野望などは明らかにパラドックスのゲームの影響が見える。さすがに建物建てて軍隊ぶつけるだけではだめだと思ってはいるらしい。

 だがコーエーにはもう一つ残念な点もある。それは、もはや信長の野望と三国志以外作る気がなくなったことである。大航海時代はソシャゲになってしまった。提督の決断も、アジアへの売り込み戦略のために亡き者にされた。
 昔は、項羽と劉邦とか、源平合戦とか、アメリカ独立戦争とか、意欲的なタイトルもあったのだが、そんな過去を知っている人間もいなくなったのだろう。

 まあ、最近は無双とかなんとかいうチャラいコンテンツで潤っているので、戦略シミュレーションなどどうでもいいのであろう。
 日本人は戦略シミュレーションだとかシミュレーションとかストラテジーとか、もう遊ばなくなってしまったらしい。ここまでこのジャンルだけ衰退した国もないだろうに。
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ファンタジー世界の兜と帽子 [ファンタジー世界考察]

 前にファンタジー世界の衣料品はウールばかりだと書いたが、亜麻のことをすっかり忘れていた。日本では亜麻のことを麻布という。リネン、あるいはリンネルともいう。仔細はそのうちまとめたい。


 予告通り兜の話。

 現代の歩兵はほとんど防具をつけていない。銃弾や砲弾の破片に当たったら即死なので鎧をつけても動きを阻害するだけである。最近は胴体を防護するようになったが。しかしヘルメットだけはしている。弾丸、というよりはむしろ砲弾の破片から頭を防護するためである。
 かといってこれをもってヘルメット、つまり兜が重要であるといい切れるわけでもない。絶対君主や啓蒙主義の時代は、兜をかぶっていたのは胸甲騎兵(キュイラシエ)だけであった。中世まで遡っても、弓兵やパイク兵などは帽子で済ませることが多かったようである。ルネサンス期のマスケット兵なども薄い三角帽だけだ。歩兵が鉄兜をかぶるようになったのは第一次世界大戦になってからである。
 しかしながら、兜は人類史的にも重要な防具であり、軍事史ではじめて登場した防具は、盾と兜であった。

 ところが日本のファンタジーではあまりキャラは兜をかぶらない。
 何故だろうか。キャラがわからなくなるからである。わかりやすい。そんなことは誰でもご承知である。だがそれでもおかしいことではある。たまにそういったファンタジーで頭を強打されたり、吹き飛ばされて頭を打ち付けたり、頭から血を流したりしているが、それでも彼らは兜をかぶらない。
 再度いうが、もちろんキャラがわからなくなるからである。画像的要請である。兜をかぶっているのは、雑魚の兵士と、素性を隠した怪しげな人物だけである。兜はそういった記号とすらなっている。

 それに加えて彼らは帽子もかぶらない傾向が強い。
 前も書いたが、近代以前のヨーロッパ人は雨からしのぐための道具を帽子に頼っていた。傘は使われていなかった。雨が降っていなくても、基本的に帽子をかぶっていることが多い。防寒というのが最大の要請であったと思われる。
 ファンタジー世界を想像したとしても、そこでは帽子は活躍するはずである。冒険者などは、防寒、日よけ、それに何より頭の防護のために帽子を手放せなかったであろう。兜は一日中つけているのは大変かもしれない。だが帽子なら屋外でずっとかぶっていられる。
 東アジアはまた独自の理由が加わる。つまり、彼らの場合は帽子ではなく冠であったが、それは地位の象徴だったのである。無位無冠などと書くことがあるが、まさに冠は地位のある独立した男の象徴であった。冠のない男は、下手をしたら罪人ばかりであった。
 現代日本の感覚ではわからないほど、人類というのは頭に何かをかぶっていたのである。

 ではファンタジー世界では何故兜も帽子もつけないのか。

 それは上記の通りキャラがわからなくなるからである。何度もいうが。

 特に、女性キャラは何もかぶらないほうがいいだろう。一部の髪型、ポニーテールや三つ編みシニヨンなどは帽子や兜をかぶるために、いちいち髪を解かないといけない。なんて面倒な。書くのも面倒だし、絵を描くのも面倒だし、デザインも考えないといけない。3Dのポリゴンにしてみたら突き抜けてしまうではないか。
 ちなみに三つ編みシニヨンを結うには腰まで届くくらいの髪が必要である。オタク文化で最も有名な三つ編みシニヨンキャラの一人がFateシリーズのセイバーアルトリアだが、髪を解いてもたいして髪が長くない。しかしあんな長さでは三つ編みシニヨンは結えない。やってみればすぐわかるが。
 セイバーモードレッドなどは兜が一つのトレードマークとはなっている。しかしむしろ特殊さの強調であり、実用的に兜や帽子をかぶるキャラはあまりいない。
 下手したら、帽子も兜もモブキャラである象徴にすらなっている。女性キャラの軍人などは制帽すらかぶらない。

 なのでアイドルがうんこしないのと同じ理由でファンタジー世界の住人は兜も帽子もかぶらない。
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ファンタジー世界のばね [ファンタジー世界考察]

 ファンタジー世界の社会構造をメインになんとなく話している気もする。

 たとえばファンタジー世界の工業生産力とか農業生産力、資本蓄積、技術発展、などをアナール学派気取りで考えるのは個人的に楽しい。
 ファンタジー世界で産業革命が起こらなかったり、資本が蓄積しなかったりする最大の要因は、いわゆる「モンスター」の存在にあると思っている。ゴブリンだのオークだのといった連中である。彼らが断続的に人間世界に破壊の斧を振り下ろすからファンタジー世界は発展しない。
 が、そんなことが楽しいのは、私とか、想像するなら支倉凍砂とその作品のコアなファンとかだけではなかろうかとも思える。


 今日はばねのお話。手を抜くつもりで。

 ばねとは物体の弾性を利用した道具、あるいは部品のことを指す。弾性とは物体が元の状態に戻ろうとする性質のことである。対義語は剛性で、物体がそのままであろうとする性質。たとえば武器でいうと剣や槌や槍が剛性を利用した道具である。弾性を利用した武器というと弓が代表的だ。
 だから弓というのはばねである。

 人類がはじめて使ったばねは、木の枝がしなることを利用した狩猟用の罠であると推測されている。その次が弓である。弓は一万年近く前から使われていた。
 弓はその後、弩(クロスボウ)へと進化した。最古の弩は支那文化の産物らしいが、その百年程度後にはヨーロッパでも使われはじめた。同時発生的に使われたらしい。
 日本ではクロスボウをボウガンと称することが多く、CardWirthでもボウガンと称する例はかなりみかけるのだが、これは株式会社ボウガンの社名であり商標である。だから報道でもボウガンとは呼ばないはずなのだが、日本のクロスボウ業界でボウガンは強いためか、割りとファンタジーに詳しそうな人でもボウガンと呼ぶ人がいる。
 ヨーロッパで弩、クロスボウが発生したとは書いたが、ヨーロッパでは携行兵器ではなく大型化した形で使われている。古代ローマのバリスタとして知られるものは有名で、バリスタはいわゆる弓の力だけではなく、ねじりの力も利用している。

 いや、順序が前後してしまうが、ヨーロッパや古代支那では弩の他に攻城兵器としてばね、ねじりの力を利用した道具が発生している。カタパルトである。カタパルトは動物の腱などのねじれの力を利用して石などを投擲する道具であった。
 古代ギリシア、あの文化が異様に発達したアレクサンドレイアでは更には青銅製の板ばねも発明されていた。
 古代ギリシア、古代アレクサンドレイアはまことに科学が発展していた。蒸気機関すら発明されていた。アンティキティラのオーパーツとして知られるアナログ計算機も発明されていた。だがどれも瑣末な道具として発展しなかった。蒸気機関はせいぜい自動人形の動力にしかならなかった。
 だからファンタジー世界で蒸気機関があっても実は不思議なわけでもないのである。

 その後、中世に入るとヨーロッパでは携行兵器としてクロスボウが多用された。クロスボウの利点は兵の育成に手間がそれほどかからないことである。クロスボウの欠点として再装填に時間がかかるというのがあるが、数を揃えれば問題ない。それに比べて普通の弓、特にロングボウなどは兵の訓練に手間がかかる。フランス軍はイングランドのロングボウ兵を捕らえると指を切り落としたが、これは身代金のために捕虜交換しても二度と弓を引けないようにするためであった。だから戦場から無事生還したイングランドのロングボウ兵はそれを誇って人差し指と中指を見せつけるポーズをとった。今ではピースサインとして知られている。
 だから訓練の時間がある個人経営の冒険者は弩をあまり使わず弓を使うのではないかと想像できる。
 日本で弩が衰退したのは、戦争が土地を巡る小競り合いしかなかったからである。少人数の兵士、つまり武士は弓の鍛錬をする時間が十二分にあった。だから兵士の数を揃えて弩を持たせる必要もなかった。戦争の規模が違ったのだ。

 さて、ばねは中世の間クロスボウの利用がせいぜいであったが、中世末期になって大きな進展を見せた。機械式時計の発明である。ぜんまいや脱進機といった機械式時計に必要な装置は、元々は中華帝国で水時計の機構として発明されたようである。それがイスラーム世界を通ってヨーロッパに到達した。
 伝説の上では、千年紀をまたいだ教皇シルウェステル2世が、イスラーム世界に学んだり悪魔と契約したりして機械式時計を発明したとされるが、これは伝説にすぎない。澁澤龍彦は機械式時計は明らかに修道院の文化から生まれたと述べている。どちらにしても、誰がいつ機械式時計を発明したのかは明らかになっていない。
 少なくとも、ぜんまいを利用した機械式時計は14世紀には存在した。ダンテはその詩の中で、機械式時計のなかった時代の平穏を懐かしんでいる。1500年頃、懐中時計が発明された。これはニュルンベルクの卵という名前で知られている。ペーター・ヘンラインという職人が発明したともされるが、これも事実ではないらしく、時計の発明は明らかになっていない。
 1500年前後であるから、ぎりぎり中世ヨーロッパ世界、中世ヨーロッパファンタジーにねじ込むことはできるかもしれない。

 もう一つ、中世ヨーロッパファンタジーに関わりそうなばねの利用は馬車の懸架装置であろう。これは16、17世紀になってからだ。もはや中世とは呼べないが、中世にねじ込むことが不可能なものでもないだろう。
 それまでは馬車の「乗り心地」を改善する手法としては、椅子を革紐で宙ぶらりんにするといういささか荒っぽい手法が取られていた。
 日本でアニメ化されるような、いわゆる中世ヨーロッパファンタジーには、お貴族様が豪華そうな馬車に乗っているが、中世ヨーロッパの馬車は懸架装置もゴムタイヤもないのだから乗り心地は最悪であった。道路も舗装すらされていないし。古代ローマの石畳の街道すら打ち棄てられ朽ち果てていた。

 ばねはこのあとも人類史で発展を遂げるが、中世ヨーロッパファンタジーと関係ないのでこんなところで切り上げておく。


 次は兜の話でもしたい。
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