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ファンタジー世界と架空の地図 [ファンタジー世界考察]

 伊集院光のラジオを聞いていたら、プロ「架空地図」士という人物がゲストで出てきて、驚いた。

 おおよそプロに限らずクリエイターというのは空疎な存在になる危機をはらんでいるものであるが、プロ架空地図士などというのは極めつけにその存在が、あまりに空想という世界に根ざしたもので、現実的な価値のあやふやなものである。
 クリエイターというのは基本的に求められるのは「ストーリー」である。何故人々が架空のコンテンツなど欲しがるのか。基本的にストーリーのためである。何か心に響くお話を聞いたり、あるいは知的興奮を求めて人々はコンテンツを求める。
 しかるに、架空地図というのは極めつけにストーリーが存在しない。そこにあるのは空想の事物だけである。架空の事物だけが存在し、中身などない。
 それがクリエイターのジャンルとして存在するのだから、しかもプロなのだから、驚きである。
 たしかに、森田一義のような人物が極めて知的興奮を覚えていたようであるが、それにしても、あるいはそこまでのものになるのだから、驚きである。


 ファンタジー世界を創造するにあたって、地図というのはほとんど必須である。創られたファンタジー世界の地図。世界そのものを創造するのだから、地図は必須だ。
 私も、高校の現実逃避時代、ひたすらファンタジー世界の地図を描くことで、その世界の実在性をなんとか保障しようとし、確固たるものとし、その世界に遊ぼうとした。

 地図というのは、描いてみるととても難しいことがわかる。
 ヨーロッパ風ファンタジーであることだし、実在のヨーロッパ大陸を念頭に置いてなんとか描こうと思うのだが、難しい。これは図像的に難しいというだけではない。私は一応元美術部なので図像的にはそんなに問題ではない。

 難しいのは、地学的、地理的に難しいのである。

 まず、大陸というものを描いても、素人知識では島みたいにしかならない。中央に山脈などを設定しても、山脈の北、山脈、山脈の南、それで終わってしまうのである。川を描いても、せいぜい山脈やら山地から出て海に流れるだけである。あるいは日本人的な発想の乏しさなのか、描けるのは「川」だけで、「河」が描けない。
 平原とか盆地とかも難しい。イタリア半島などはある程度わかりやすいので、まだいいのだが、たとえばパンノニアの平原などは難しい。だいたい、なまじ海で囲おうとするから、内陸部を作るのが難しいのである。
 特にヨーロッパ大陸は山脈も平原も河川も豊富であり、味わい深いものがあるのだ。

 それにファンタジー世界の地図であっても、政治や経済と大きく関わりがある。歴史もだ。歴史的にどの国が、都市が影響力を持ったのか。何故このような国境が引かれたのか。経済的中心は、物資の集積地はどこか。産物の、鉱石や農産物の産地はどこか。それらはどのように流通しているのか。その結果どのような国家が存在しうるか。……


 しかしそれにしても架空地図である。

 架空地図というのは、そもそもは何かしらのコンテンツの副産物であって、それ自体独立するというのは想像がつかなかった。
 たとえばロードス島戦記ならロードス島(架空の方の)の地図が載っており、それによって小説の理解を深めるわけである。
 しかし、プロ架空地図士というのは、地図だけであり、地図単体で商売にすらなっているのだ。

 ちなみに、伊集院光のラジオに出ていたそのプロ架空地図士というのはあくまで「現実世界」の架空地図を描くのであって、「ファンタジー世界」の地図を描くわけではない。
 つまり、架空の、たとえば「海羽空市」の地図を描くわけであって、架空の「なんちゃらワールド」の世界の地図を描くわけではない。

 地図を描くのは容易ではない。地理、地学、そしてその周辺の社会的事象を知悉しなければ描くことはできない。
 なにせあの森田一義が知的興奮を覚えるような架空地図である。


 架空地図で驚きなのは、単一のコンテンツとして存在できるだけの、いやそれ以前に、架空地図という存在そのものの、純粋な想像性である。

 前々から書いているように、小説や漫画やアニメのファンタジー、架空性など、シナリオの表面を取り繕えれば、どうでもいいのである。ストーリーさえ読者の心を掴めるのなら、多少世界の想像力に破綻をきたしていてもなんの問題もない。
 実際、この世界が現実に存在していたら、地理学的に、生物学的に、社会科学的に破綻するであろうような創作世界などたくさんあるだろう。
 TRPGの世界などは、この問題をある程度クリアする必要が生ずる。TRPGの世界は、ストーリーそのものを供給するわけではない。その世界を舞台として、「いかなる」物語でも包摂できるように、少なくとも名目上、そう創られる必要がある。GMがどんなストーリーを作ってもいいように。だからTRPGの世界は独立性と十全たることを求められる。だがそれにしても、破綻をきたしそうな世界はいくらでもあるし、プレイアビリティを基本としてその世界の独立性を、犠牲にしたりあるいは無視する事象はあるだろう。

 しかし、架空地図は違う。
 小説や漫画やゲームの世界も、TRPGの世界も、何かしらの目的のために、ある程度折り合いをつけて世界をデザインされる。
 しかし、架空地図はそうではない。世界のデザイン、地図、その事象そのものが目的である。その地図という確実な事象そのものが十全でなければならない。地図に描かれた世界は完全でなければならない。川があるなら、その源流も河口も存在するものとして設定しなければならない。鉄道も、駅も、道路も、その街に、街の規模に合ったものでなければならない。街はその経済力、生産性、居住性、それらをすべて考えて想像され、地図に描かれる。だからこそプロの架空地図士が存在し、森田一義のような人物が感嘆する。


 私がファンタジー世界について懇懇と訴えているのは、まさにこれである。
 私にとってファンタジー世界は確実に、遺漏なく存在しなければならない。それはそもそも、世界そのものの想像が目的であるからである。物語は二の次なのである。世界は完全で完璧でなければならないのだ。
 架空世界の創造を目的としている私にとって、だから、この架空地図の存在は非常に新鮮な驚きであったのである。
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ファンタジー世界の科学とか発明 メモ程度 [ファンタジー世界考察]

 ここのアクセス解析を見るとCardWirth関係の記事へのアクセスが多いのだから、胡乱な知識に基づいたいい加減なファンタジー世界の考察など書かないでCardWirthのシナリオ評価なりリプレイなり書けば良いとは思うのだが、グラフィック周りの不具合でCardWirthのプレイに時折支障があるのもあるし、特別私もCardWirthを毎日やりたいくらいはまっているわけでもない。

 なによりそれより、私はそろそろ次の小説を書く算段でもしないといけないのだが、さっぱり手を付けていない。想像力がさっぱり働かない。しかも最近ろくに小説を読んでいない。物語というものから遠ざかっている。最近読んだのは軍事史の本とか澁澤龍彦のエッセイとかばかりである。
 そもそも物語より事物の好きな私に小説などまともに書けるのかと思わないでもない。私は特別物語をたくさん読んできたわけでもないように思える。本の虫というのでもないし。


 科学雑誌で記事を見かけたのだが、地球温暖化によって航空運輸業界が打撃を受けるそうである。
 地球温暖化により空気が熱せられ膨張する。つまり密度が低くなる。すると、飛行機に必要な揚力が発生しにくくなる。揚力というのは翼によって空気の密度の差異を作り出し、生まれるからである。そうなると滑走路を長くしたり、貨物量を減らすなどしないと十分な揚力を生み出せない。だから航空機で運べる荷物や人員が少なくなり、滑走路も延長しないといけない。
 地球温暖化の影響というと、人々が真っ先に思い浮かべるのは海水面の上昇とか、極地の氷が溶けるであるとか、あるいは最近なら強大な台風やゲリラ豪雨などでろう。航空運輸への影響はあまり考慮されていなかった。

 人間の想像力というのもそんなに遠大なものではない。
 たとえば、毛沢東の大躍進政策では、穀物の生産躍進のために穀類を食べる雀を駆除したり、種子を地中深く埋めると植物の根が育つというルイセンコの提唱したミチューリン農法が行われたり、製鉄量のノルマを課したりした。これらの「浅い思慮」が何をもたらしたかは誰もが知っている。雀についていうなら、雀というのは植物だけでなく、植物に害をなす虫も食べるので、雀の駆除は害虫の天敵を駆除しただけなのだ。お陰で虫の害がひどくなり凶作となった。
 安い想像力というのは雀を駆除すれば農業への害が単純に減ると思うのと同じである。

 ファンタジー世界というのも、安易な設定などを出しても大躍進政策の雀と同じで、実際行ってみたら少なくともシミュレートの段階で、割りと容易にボロが出るのではないかと思える。
 当たり前といえば当り前であり、一般的にファンタジー世界に求められるのは「素晴らしいストーリー」であり、別に科学的シミュレートのために人々はファンタジーを楽しんでいるわけではない。
 だからそんなものを気にする必要はないか、というとあまりに浅薄な設定は世界自体のリアリティを損なう。といったところで、その敷居は限りなく低い。なにせ現代世界が舞台であっても車に強化ガラスがはまっていない。そして人々は窓ガラス程度でリアリティを損なわれたりしない。
 それでも田中芳樹などは中世ヨーロッパ風の世界で数万人の兵士を動員するために苦心惨憺し、結果ジャガイモを中世ヨーロッパ風世界に登場させている。しかし凡百のファンタジー世界には普通にジャガイモは登場するだろう。

 前にファンタジー世界の社会科学と自然科学について、自然科学はある程度魔術や神の奇跡を介在させられるが、社会科学はそうもいかないと書いたものの、かといって自然科学が自在に改変可能となるわけでもなかろう。


 前にファンタジー世界で社会の発展、中央集権化や軍事革命や資本の蓄積が起きないのは、いわゆるモンスター、ゴブリンやらオークやらが社会を断続的に破壊するから、という仮設を書いたが、それとて実際的にどうであるかはなんともいえない。シミュレートといったところでこの胡乱な脳みそでできることなどすぐ限界に達する。


 ついでにちょっと発明について。

 人類の発明史というのは色々と奇妙な過程を辿っている。
 たとえば文字というのは、完全に独自に発明されたケースが、三つか四つしかない。シュメルの文字、漢字、マヤ文字など、これくらいしかない。エジプトの文字などはシュメルの文字とは系統が違うが、シュメル文明の文字という概念に触発されて発明されたのだとされている。シクウォイアのチェロキー文字と同じである。
 ねじというものは、中華帝国やその近縁の東アジアでは発明されなかった。中国で発明されなかった唯一の機械だとすら呼ばれている。
 アナログ計算機、蒸気機関、印刷といった発明は古代ギリシアでなされていた。アンティキティラの機械やアレクサンドレイアの蒸気人形やファイストスの円盤などのことである。しかしこれらの発明はその後の文明にまったく受け継がれなかった。
 つまり、発明とか文明とかいうものはすべてがシヴィライゼーションのテクノロジーツリーみたいにいくわけではないのである。

 だからファンタジー世界にしても、発明とか文明とかを考えるにしても限度があるし、逆にそこにつけ込む余地も生まれる。
 アレクサンドレイアの蒸気機関が受け継がれたファンタジーだって想像可能ではあるのだ。
 だが、かといって産業革命を起こすためには資本の蓄積という問題も発生する。

 そこまでファンタジー世界で考える必要があるのか、ないのか。
 その回答は知らない。
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ファンタジー世界のストーリーテリング [ファンタジー世界考察]

 実のところここのアクセス解析を見ると、CardWirth関係の記事の方がアクセス数が多いし、CardWirthで特定のシナリオ名で検索するとここが割りとトップに来てしまうので、アクセス数を求めるのならCardWirthの記事を書く方がいいのだが、しかし今はPCの調子が悪いのでCardWirthそのものをプレイできない。
 文句をつけることではないが、このブログはSEO的に良好過ぎる。金貨や銀貨の価値もろくにわからないのにこんなブログが検索トップにきても誰の益にもならない。CardWirthだって短い紹介しかしていない。アクセス数が多いと喜びはあるが、申し訳なくもある。


 ストーリーテリングなどというが、大した長編小説も書けなければ、TRPGやPBWのGM経験も大して積んでもいない私が偉そうに書くこともないし、書くのもおこがましいとは思っている。
 なのでこの記事は多分なんの利益にもならない。私にとっても。

 レクリエイターズを見ていると、いまいちシナリオが面白くない。正直なところ。どうも、わかりきった結末に到達するためにシナリオを消化するために逐次的に展開しているだけに思える。

 ただ、特にファンタジーもののシナリオはそういう傾向はある。これはファンタジーの源流たる神話の構造とも関わるようにも思える。

 よく、特にMMORPGなどで、お使いシナリオというのが非難される。要するに、ここに行って誰にこれを届けろ、という依頼を延々されるだけのシナリオということである。
 ただ、お使いシナリオ自体は特にファンタジーでは基本である。

 ファンタジーというのは、だいたい、結末がわかりきっている傾向がある。重要なのは、そこに至るまでの道程をどう先延ばしし、描くかである。
 ドラゴンクエストなどというのは、それが視覚化されている。目的は目の前の竜王城である。しかしそこに行くには延々とお使いをさせられる。それだけのゲームシナリオなのである。大雑把に言えば。目的は竜王を倒すことだけである。いや、一応姫の救出もあるのだが。
 結局、ドラゴンクエストのシナリオというのは、竜王城への道のりをなるべく引き伸ばし、そしてそれをもっともらしく見せるだけのものなのである。ドラゴンクエストの「クエスト」とはそういうものなのだと思う。

 といっても、別にそれを批難するつもりでも否定するつもりでもない。
 TRPGだってそうである。冒険者の日常というのも、延々とゴブリン殴り倒すだけの日々だっていいのである。あるいは隊商の護衛を延々と。TRPGは実のところそれだけでも楽しい。あまりシナリオにすごいシナリオ性は必要ない。ロールプレイ自体が楽しみなのだから、シナリオはそんなにリッチでなくてもプレイヤーは楽しめる。
 ただ、コンピュータRPGはロールプレイわけでもない。アニメでも漫画でも小説でも、コンピュータゲーム以下のインタラクティブ性なのだから、当然それでは満足できない。PBWの安いシナリオにそれなりの金を人々が支払うのも、自分のキャラの活躍が楽しいからである。

 神話にその由来があるというのは、つまり、神話の英雄譚というのは、神々が英雄を成長させていくために試練を与えていく過程なので、英雄たちは神々から与えられたクエストを淡々とこなしていく。
 つまり、英雄の玉座に至るまで、資質を証明するために延々と同じような試練を課せられる。

 ゲームに戻ると、漫画や小説や、あるいはコンピュータゲームはどうしてもストーリーリッチが必要なのは、逆にいうとTRPGやPBWがそこそこチープでも楽しいのは、ロールプレイの有無にある。小説では、幾ら優れた作品でも、自分自身を完全に主人公に反映できるわけではない。


 だからどうしたといわれると、別に、ただそれだけの話ではあるのだが。
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ファンタジー世界の宗教と修道院 [ファンタジー世界考察]

 話の枕を何か用意していたのだけれど、忘れてしまった。

 ファンタジー世界のマジックアイテムについて一文書こうと思ったのだが、たとえば資料(まあ正直Wikipediaだけれど)にリーヴルと書いてあって、それがそもそもどのような単位かわからない。調べると銀貨と思われるが、それが今の貨幣価値で幾らくらいになるかもよくわからない。
 このブログでは以前に、銀貨は100円、金貨は20万円、と偉そうに書いたが、どうもそれも正確といえるかわからない。いや、「ファンタジー世界の銀貨と金貨」はだいたいこれでもあっているのだが、「中世ヨーロッパ」となるとどうだか。調べるとフィオリーノ金貨は12万円くらいだという。ただ、20万円の根拠であるデュカート金貨は24金で、フィオリーノ金貨は18金らしい。
 ここでは偉そうに書いて、SEO的に検索上位にヒットするが、ここの情報など斯様に胡散臭いのであるから、留意されたい。


 今日は修道院のことを少し書く。……

 そもそも日本人は修道院にあまり馴染みがない。シスターの服はそれなりに有名だが、それくらいである。修道院組織は学校法人運営していることも多いので、日本人にはそちらのイメージが強いのかもしれない。
 日本で有名な修道院というと函館のトラピストやトラピスティーヌかもしれない。トラピストの方は厳格な修道院であり、観想修道会と呼ばれるキリスト教でも少し特別な、厳格な修道院ではある。徹底的な禁足地となっており、自由に中に入れるわけでもない。バターやクッキーは有名である。トラピスティーヌの方は、同じ観想修道会であり厳格な修道院なのだが、割りと観光地化している。もちろん、内部には入れないのだが。

 だいたい、日本ではやはりキリスト教はマイナーな宗教ではある。それに、キリスト教文化圏に全体的に馴染みはないし、一神教の「臭い」を知っているわけでもない。

 日本のネトウヨは、イスラームのテロなどが起きると、一神教つながりでキリスト教まで不寛容だのなんだのと難癖をつける傾向があるように見える。で、一応多神教である神道などを褒めるのだが。
 かわいそうなことに、ネトウヨに大人気の麻生太郎などはカトリックである。麻生太郎は首相在任時、アクィラサミットのついでにローマ教皇に拝謁したのだが、この瞬間こそ麻生太郎は個人的に首相となったことを神に感謝したのであろう、などと思っていた。他にも大平正芳は聖公会の信者であり、吉田茂は実質的にカトリックであった。洗礼は受けなかったが。もっとも、ネトウヨにとって吉田茂などは売国奴になっている可能性もあるが。
 そもそも彼らが支持する安倍=日本会議もキリスト教右翼と結びつきが強い。安倍が勝共統一教会で壺を売っていたというアンサイクロペディアの書き込みは眉唾だが、日本会議には統一教会も賛同している。表現規制も主体だったのはキリスト教右翼フェミの矯風会であった。松文館裁判など見ても右派と警察が表現規制の主体であった歴史が見えるが、近年サヨクがフェミつながりで表現規制に肩入れしているので、すっかり矯風会や生長の家や親学の連中が規制派だったことが忘れ去られている。

 話が大きくずれた。ここでは政治の話などしたくない。

 ファンタジー世界はたいていの場合、多神教の世界ということになっている。一つには、私の推論だが、ファンタジー世界を作ったキリスト教文化圏の人間が、キリスト教から逃避するために作ったのがファンタジー世界だからではないかと思っている。男がジェンダーフリーを目指して百合に走るのと同じである。
 これに、古代ローマや古代ギリシアなどへの憧れや、あるいは「蛮族」として暮らしてきたケルトやゲルマンの民への郷愁めいたものなども混じるのであろう。というかそちらが主体か。

 ではかといって修道院の存在を、中世ヨーロッパ風ファンタジー世界で無視していいかというと、そうもいかない。中世ヨーロッパ世界において修道院は、特に観念の面で非常に大きな、強い存在であった。修道院のない中世ヨーロッパ世界など想像できない。だから中世ヨーロッパをベースにする以上修道院は無視できない。
 中世ヨーロッパでもっとも技術と知性が発達したのも修道院である。大学などではない。修道院は知識の集積所であった。活版印刷のなかった中世ヨーロッパでは、図書の「生産」は筆写によるしかなく、そして筆写の最大の拠点が修道院であった。ファンタジー世界における活版印刷や紙の仮想的発展は世界観をそれを不要にするかもしれないが、中世ヨーロッパらしさは修道院なしでは語れない。
 修道院で技術的発展が見られたのは、その技術を開発する、あるいは発明の余裕を与える経済的基盤があったからだ。修道院には俗界領主からの寄進があったが、俗界領主と違い相続で分割されることがなかったため、財産は増える一方だった。
 観念的に修道院は重要である。その精神構造にはユートピア的なものが見られる。修道院の時間は永遠である。修道僧達は永遠の祈りを、俗界から断ち切られた祈りの場で送った。今日も、明日も、明後日も、永遠に彼らは祈りを続ける。機械式時計が修道院で生まれたのは偶然ではないと澁澤龍彦は述べている。祈りの時を計り、告げるのが機械式時計の役割だ。機械式時計の盤面はユートピア的である。針は永遠に盤面を回り続け、終わりがない。時計の針は永遠に回り続ける。
 もっと世俗のことをいえば、酒は修道院の文化であった。坊主というと俗界の楽しみから切断されて酩酊するなどもってのほかと日本の感覚だと思われるが、そもそもヨーロッパは水が飲めたものではない。修道僧達は飲料にするためにも、労働の成果としても、酒を造った。ビールやエールに必須のハーブは修道院の秘密でもあった。蒸留酒も修道院で生まれた。かのマルティン・ルターなどは、ビールを飲むと天国が降りてくるなどと述べている。ワインもリキュールもビールも、今の時代だって修道院で作られている。
 それに騎士団というファンタジー世界でおなじみの組織も修道院のものである。騎士団は、十字軍の際に聖地巡礼を行い、巡礼者を助けるために結成された「騎士修道会」が元々の存在である。現代でも活躍しているマルタ騎士団、聖ヨハネ騎士団は十字軍で巡礼者の病気や怪我を治癒するための医療組織としてスタートした。だから聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団とも呼ばれる。だいたい、騎士団は日本で思われているような軍事組織というわけでもない。元は修道会であるし、その後それを模倣して作られたのがガーター騎士団や金羊毛騎士団やドラゴン騎士団のような世俗騎士団であるが、これらはせいぜいが上流階級の社交クラブのようなものである。


 しかしまあ、キリスト教文化圏と、日本とでは文化的断絶は大きく、その最大の所以がキリスト教などの一神教にあるようには思える。
 いや、ギリシアやローマは多神教で、たとえば一神教が目の敵にした同性愛なども盛んに行われていたが、それでもそれが日本の文化と親和性がどれくらいあるのかはわからない。塩野七生などは古代ローマと日本の類似点を様々挙げているが。

 たとえば、私はここでJRPGを、絵面だけが綺麗とか、アニメチックにすぎるとか、そんな切り口で取り上げているが、JRPGとキリスト教文化圏のRPGの差異は一神教への親和性に所以するウェイトも大きいという。つまり、神というものへの考え方である。
 JRPGは、たとえば女神転生シリーズに見いだせるように、特に真・女神転生のLOWサイドの描き方に見られるように、割りと神に対して普通に叛逆する。なんなら、一神教の神を思わせる「神」なる存在が色々と裏で陰謀を巡らせている、すべての(主に悪の)黒幕である、というのが根強い。これは日本で特別発展したものだともいう。ラスボスがヤハウェなどというゲームは日本ならではとも思える。いや、今ラスボスをヤハウェにする度胸がセガにあるとも思えない。まあ、真・女神転生シリーズなど明らかにキリスト教の天使が今でも割りと悪の側に立っているが。

 別にラスボスにヤハウェを持ってきたり、神がすべての悪の根源とかいうのも、個人的に問題とか間違いとも思っていないし、なんなら好きでもあるが、しかしそれは一つの、大して厚い根拠をもった視点というわけでもない。確かに古代でもグノーシスの教えなどは神を悪と見做す思想であった。しかし軽々に中世ヨーロッパを同じ視点で見るわけにもいかない。カトリック教会についての、そういった日本的な見方を通した中世ヨーロッパ観、というかそれを元にした中世ヨーロッパ風ファンタジー世界の信仰のあり方は、かなり薄っぺらく見えることが多い。上述のネトウヨくらい軽率である。


 中世ヨーロッパ風ファンタジーだから修道院が必須であると述べたりはしないが、それに配慮していない世界の、特に宗教の面は、しばしば軽薄に見える。
 中世ヨーロッパ、もっというなら「未明の世界」における信仰というものの存在を軽く見ていることが多いように思える。日本は宗教というと今の半分無宗教状態が通常に思えるから、過去の神道や仏教、また神仏習合にすら理解が足りていない。日本の神道、仏教、神仏習合などを近代的な視点でしか理解し得ていない。キリスト教などは尚更である。日本で宗教などというと、新興宗教のことしか思い浮かばない人間も多いかもしれない。
 軽々にファンタジー世界の住人が宗教に叛逆するとは思えない。それはあまりに現代日本的価値観にも過ぎる。


 キリスト教文化圏と、日本の文化で大きな差異を見せるのは、宗教の陰画たるエロティシズムの分野かもしれない。だが、それを書くにはここの余白は……いやもう疲れたというか。
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ファンタジー世界の兜と帽子 [ファンタジー世界考察]

 前にファンタジー世界の衣料品はウールばかりだと書いたが、亜麻のことをすっかり忘れていた。日本では亜麻のことを麻布という。リネン、あるいはリンネルともいう。仔細はそのうちまとめたい。


 予告通り兜の話。

 現代の歩兵はほとんど防具をつけていない。銃弾や砲弾の破片に当たったら即死なので鎧をつけても動きを阻害するだけである。最近は胴体を防護するようになったが。しかしヘルメットだけはしている。弾丸、というよりはむしろ砲弾の破片から頭を防護するためである。
 かといってこれをもってヘルメット、つまり兜が重要であるといい切れるわけでもない。絶対君主や啓蒙主義の時代は、兜をかぶっていたのは胸甲騎兵(キュイラシエ)だけであった。中世まで遡っても、弓兵やパイク兵などは帽子で済ませることが多かったようである。ルネサンス期のマスケット兵なども薄い三角帽だけだ。歩兵が鉄兜をかぶるようになったのは第一次世界大戦になってからである。
 しかしながら、兜は人類史的にも重要な防具であり、軍事史ではじめて登場した防具は、盾と兜であった。

 ところが日本のファンタジーではあまりキャラは兜をかぶらない。
 何故だろうか。キャラがわからなくなるからである。わかりやすい。そんなことは誰でもご承知である。だがそれでもおかしいことではある。たまにそういったファンタジーで頭を強打されたり、吹き飛ばされて頭を打ち付けたり、頭から血を流したりしているが、それでも彼らは兜をかぶらない。
 再度いうが、もちろんキャラがわからなくなるからである。画像的要請である。兜をかぶっているのは、雑魚の兵士と、素性を隠した怪しげな人物だけである。兜はそういった記号とすらなっている。

 それに加えて彼らは帽子もかぶらない傾向が強い。
 前も書いたが、近代以前のヨーロッパ人は雨からしのぐための道具を帽子に頼っていた。傘は使われていなかった。雨が降っていなくても、基本的に帽子をかぶっていることが多い。防寒というのが最大の要請であったと思われる。
 ファンタジー世界を想像したとしても、そこでは帽子は活躍するはずである。冒険者などは、防寒、日よけ、それに何より頭の防護のために帽子を手放せなかったであろう。兜は一日中つけているのは大変かもしれない。だが帽子なら屋外でずっとかぶっていられる。
 東アジアはまた独自の理由が加わる。つまり、彼らの場合は帽子ではなく冠であったが、それは地位の象徴だったのである。無位無冠などと書くことがあるが、まさに冠は地位のある独立した男の象徴であった。冠のない男は、下手をしたら罪人ばかりであった。
 現代日本の感覚ではわからないほど、人類というのは頭に何かをかぶっていたのである。

 ではファンタジー世界では何故兜も帽子もつけないのか。

 それは上記の通りキャラがわからなくなるからである。何度もいうが。

 特に、女性キャラは何もかぶらないほうがいいだろう。一部の髪型、ポニーテールや三つ編みシニヨンなどは帽子や兜をかぶるために、いちいち髪を解かないといけない。なんて面倒な。書くのも面倒だし、絵を描くのも面倒だし、デザインも考えないといけない。3Dのポリゴンにしてみたら突き抜けてしまうではないか。
 ちなみに三つ編みシニヨンを結うには腰まで届くくらいの髪が必要である。オタク文化で最も有名な三つ編みシニヨンキャラの一人がFateシリーズのセイバーアルトリアだが、髪を解いてもたいして髪が長くない。しかしあんな長さでは三つ編みシニヨンは結えない。やってみればすぐわかるが。
 セイバーモードレッドなどは兜が一つのトレードマークとはなっている。しかしむしろ特殊さの強調であり、実用的に兜や帽子をかぶるキャラはあまりいない。
 下手したら、帽子も兜もモブキャラである象徴にすらなっている。女性キャラの軍人などは制帽すらかぶらない。

 なのでアイドルがうんこしないのと同じ理由でファンタジー世界の住人は兜も帽子もかぶらない。
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ファンタジー世界のばね [ファンタジー世界考察]

 ファンタジー世界の社会構造をメインになんとなく話している気もする。

 たとえばファンタジー世界の工業生産力とか農業生産力、資本蓄積、技術発展、などをアナール学派気取りで考えるのは個人的に楽しい。
 ファンタジー世界で産業革命が起こらなかったり、資本が蓄積しなかったりする最大の要因は、いわゆる「モンスター」の存在にあると思っている。ゴブリンだのオークだのといった連中である。彼らが断続的に人間世界に破壊の斧を振り下ろすからファンタジー世界は発展しない。
 が、そんなことが楽しいのは、私とか、想像するなら支倉凍砂とその作品のコアなファンとかだけではなかろうかとも思える。


 今日はばねのお話。手を抜くつもりで。

 ばねとは物体の弾性を利用した道具、あるいは部品のことを指す。弾性とは物体が元の状態に戻ろうとする性質のことである。対義語は剛性で、物体がそのままであろうとする性質。たとえば武器でいうと剣や槌や槍が剛性を利用した道具である。弾性を利用した武器というと弓が代表的だ。
 だから弓というのはばねである。

 人類がはじめて使ったばねは、木の枝がしなることを利用した狩猟用の罠であると推測されている。その次が弓である。弓は一万年近く前から使われていた。
 弓はその後、弩(クロスボウ)へと進化した。最古の弩は支那文化の産物らしいが、その百年程度後にはヨーロッパでも使われはじめた。同時発生的に使われたらしい。
 日本ではクロスボウをボウガンと称することが多く、CardWirthでもボウガンと称する例はかなりみかけるのだが、これは株式会社ボウガンの社名であり商標である。だから報道でもボウガンとは呼ばないはずなのだが、日本のクロスボウ業界でボウガンは強いためか、割りとファンタジーに詳しそうな人でもボウガンと呼ぶ人がいる。
 ヨーロッパで弩、クロスボウが発生したとは書いたが、ヨーロッパでは携行兵器ではなく大型化した形で使われている。古代ローマのバリスタとして知られるものは有名で、バリスタはいわゆる弓の力だけではなく、ねじりの力も利用している。

 いや、順序が前後してしまうが、ヨーロッパや古代支那では弩の他に攻城兵器としてばね、ねじりの力を利用した道具が発生している。カタパルトである。カタパルトは動物の腱などのねじれの力を利用して石などを投擲する道具であった。
 古代ギリシア、あの文化が異様に発達したアレクサンドレイアでは更には青銅製の板ばねも発明されていた。
 古代ギリシア、古代アレクサンドレイアはまことに科学が発展していた。蒸気機関すら発明されていた。アンティキティラのオーパーツとして知られるアナログ計算機も発明されていた。だがどれも瑣末な道具として発展しなかった。蒸気機関はせいぜい自動人形の動力にしかならなかった。
 だからファンタジー世界で蒸気機関があっても実は不思議なわけでもないのである。

 その後、中世に入るとヨーロッパでは携行兵器としてクロスボウが多用された。クロスボウの利点は兵の育成に手間がそれほどかからないことである。クロスボウの欠点として再装填に時間がかかるというのがあるが、数を揃えれば問題ない。それに比べて普通の弓、特にロングボウなどは兵の訓練に手間がかかる。フランス軍はイングランドのロングボウ兵を捕らえると指を切り落としたが、これは身代金のために捕虜交換しても二度と弓を引けないようにするためであった。だから戦場から無事生還したイングランドのロングボウ兵はそれを誇って人差し指と中指を見せつけるポーズをとった。今ではピースサインとして知られている。
 だから訓練の時間がある個人経営の冒険者は弩をあまり使わず弓を使うのではないかと想像できる。
 日本で弩が衰退したのは、戦争が土地を巡る小競り合いしかなかったからである。少人数の兵士、つまり武士は弓の鍛錬をする時間が十二分にあった。だから兵士の数を揃えて弩を持たせる必要もなかった。戦争の規模が違ったのだ。

 さて、ばねは中世の間クロスボウの利用がせいぜいであったが、中世末期になって大きな進展を見せた。機械式時計の発明である。ぜんまいや脱進機といった機械式時計に必要な装置は、元々は中華帝国で水時計の機構として発明されたようである。それがイスラーム世界を通ってヨーロッパに到達した。
 伝説の上では、千年紀をまたいだ教皇シルウェステル2世が、イスラーム世界に学んだり悪魔と契約したりして機械式時計を発明したとされるが、これは伝説にすぎない。澁澤龍彦は機械式時計は明らかに修道院の文化から生まれたと述べている。どちらにしても、誰がいつ機械式時計を発明したのかは明らかになっていない。
 少なくとも、ぜんまいを利用した機械式時計は14世紀には存在した。ダンテはその詩の中で、機械式時計のなかった時代の平穏を懐かしんでいる。1500年頃、懐中時計が発明された。これはニュルンベルクの卵という名前で知られている。ペーター・ヘンラインという職人が発明したともされるが、これも事実ではないらしく、時計の発明は明らかになっていない。
 1500年前後であるから、ぎりぎり中世ヨーロッパ世界、中世ヨーロッパファンタジーにねじ込むことはできるかもしれない。

 もう一つ、中世ヨーロッパファンタジーに関わりそうなばねの利用は馬車の懸架装置であろう。これは16、17世紀になってからだ。もはや中世とは呼べないが、中世にねじ込むことが不可能なものでもないだろう。
 それまでは馬車の「乗り心地」を改善する手法としては、椅子を革紐で宙ぶらりんにするといういささか荒っぽい手法が取られていた。
 日本でアニメ化されるような、いわゆる中世ヨーロッパファンタジーには、お貴族様が豪華そうな馬車に乗っているが、中世ヨーロッパの馬車は懸架装置もゴムタイヤもないのだから乗り心地は最悪であった。道路も舗装すらされていないし。古代ローマの石畳の街道すら打ち棄てられ朽ち果てていた。

 ばねはこのあとも人類史で発展を遂げるが、中世ヨーロッパファンタジーと関係ないのでこんなところで切り上げておく。


 次は兜の話でもしたい。
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ファンタジー世界の売れ行き [ファンタジー世界考察]

 先日の記事で、カラスの死骸を畑に放置したらカラスが寄ってこないことに疑義を呈したが、調べたところ実際にカラスの死骸や、カラスの死骸を模した案山子を畑に置いておくと、カラスは寄ってこないらしい。
 これは私の不明である……といえるかどうか。そもそも先述のシナリオはそういったところの説得力が弱くて心に訴えなかったように思える。


 さて。本題。

 Divinity Original Sinという割りとポピュラーなRPGをリリースしたゲームスタジオ、Larian StudioがサイトでRPGについてのアンケートをとっていたらしく、その調査結果をRPG Player Surveyと称して公開している
 なかなか面白い結果ではあるが、ただこのアンケートは同スタジオが自ゲームのプレイヤーを通じて呼びかけたものなので幾らかサンプルに偏りはありそうだ。つまり、このアンケートの結果で一番支持されている要素は、Divinity Original Sinの要素とだいたい一致している。
 とはいえアンケートとしての興味深さはある。

 まず最も支持されているジャンルは、コンピュータRPGとあり、次いでアクションRPGである。それらの次にストラテジーがそれなりの支持を集めている。一方でJRPGやMMORPG、Co-opゲームなどは支持が分かれている。コンピュータRPGとはなんぞという気もするが、要するにシングルプレイでアクション要素が薄くストラテジー要素もない、JRPGではないRPGのことらしい。
 JRPGというのはやはり国際的に見て一部のユーザーにしか支持されていないようである。そしてそれほど人々はマルチプレイを好かないということだろうか。

 RPGのカメラ、視点は見下ろし型が最も支持されており、一人称視点(ファーストパーソン)や三人称視点(サードパーソン)はそこまでの支持を集めていない。ただ、Divinity Original Sinというゲーム自体が見下ろし型なのであるが。

 RPGの構成要素で最も重要視されているのがストーリーである。それにキャラの育成が続く。バトルの戦術性、周回プレイ、宝集めなどはあまり重視されていない。クラフティングもいまいちである。協力プレイはもっと重視されていない。
 考えてみれば、スマホゲームでもFGOなどは、奈須きのこのストーリーと英霊育成(というかキャラ萌え)が重要なのであって、バトルも特別評価されてもいないし、協力プレイも面倒臭がられている。素材集めなどはうんざりされていそうだが。スマホゲームでやたら戦略的バトル(この造語は印象に訴えただけのかなり胡散臭いものである)を謳っているものがあるが、あまり重要視されていないのかもしれない。もっとも、奈須きのこのようなシナリオはそうそう誰でも書けないのだが。

 戦闘システムではターンバトルが好まれており、リアルタイムやポーズつきリアルタイムはそれらにやや劣る。この辺はどれくらい普遍的にそう思われているのか、やや疑問であるが。

 幾つか項目はあるが飛ばして。
 プレイヤーキャラクターはどのようなものがいいかという設問がある。一番支持されているのはカスタムキャラであった。用意されたキャラでプレイするのは、それに比べるとかなり支持が低い。これは興味深い。カスタムキャラは50%近い支持があるのに比べ、プリセットのキャラは15%程度しか支持がない。やはり、RPGというのは没入感が大切で、そのためにはプレイヤーキャラクターをいかにキャラメイクできるかというのが重要ということなのだろうか。

 また飛ばして。
 プレイヤーの性別は、男性が90%近い。女性は10%に満たない。これも興味深い。仔細は後述する。


 このアンケートで大きく差がついた項目として、後ろ二つが特に気を惹く。

 そもそもJRPGというか、日本でのRPGの歴史を考えると、ロールプレイとかキャラメイクという概念自体が薄いように思える。もちろんこれはコンピュータRPGが日本でのRPGの主導権を握っているからである。
 元来のRPGとは、日本でいうところのTRPGである。ちなみにTRPGは和製英語の一種である。日本のコンピュータベースのロールプレイングゲームにはロールプレイという概念が存在しないようにすら見受けられる。プリセットのよくありがちな熱血少年が勇者として世界を救う。そればかりである。多くのプレイヤーはプリセットの「勇者」で満足している。熱血少年勇者に自己を投影して没入できるのなら結構だが、そうではないのならロールプレイの性質も変わるし、ゲーム自体への没入を阻む可能性すらあるのだ。

 ではそれが何故広く許容されていたか。それはRPGのプレイヤー層が物語っている。つまり、少なくともパソコンでロールプレイングゲームをしている人間の多くが、男性であるということである。
 男性がメインのプレイヤーなら、熱血少年勇者を用意しておけば、大雑把にいってだいたいのユーザーがそれで許容してくれるだろう。女性や男性の一部、私のような女性化願望の強い男性などは違和感を感じるかもしれないが、はっきりいって少数派なので切り捨てても問題ないのである。

 振り返ると、日本のライトノベルの、RPG=ファンタジーの嚆矢としてロードス島戦記が存在しているのはいささか幸運であったのかもしれない。ロードス島戦記は元来、AD&Dのリプレイとして雑誌掲載されていたものである。著作権的に面倒であるために元がAD&Dであったことは半分なかったことにされている。といっても葬り去られたとかいうわけでもないが。なので、コンピュータRPG、ドラクエとFFの影響が圧倒的な日本のRPG=ファンタジーの根っこに「伝統的な」TRPGを接ぎ木することはできたのかもしれない。ちなみにロードス島戦記の世界はその後和製TRPGソード・ワールド(無印)となった。また、AD&Dは根っこをたどれば指環物語に行き着く。
 とはいえ日本のライトノベル黎明期を支えたもう一つの作品がスレイヤーズ! であった。これはどちらかというとコンピュータRPG的な発想が強いように思える。むしろ今のライトノベル=RPG=ファンタジーはこちらの影響のほうがまだ強いのかもしれない。

 その後、特にエニックスがドラクエをメタ化したかのような漫画を多く輩出させたことが、今の日本に蔓延るコンピュータRPGベースのファンタジー世界的想像力へと結実した一因となった。

 余談だが、最近のTRPGはすっかりクトゥルフの呼び声に支配されている。そもそもTRPGはコンピュータRPGの勢いに飲まれて、世紀が変わる頃には衰退していた。一度IRCのオンラインセッションを中心に盛り上がったが、結局地下水脈となりつつあった。そこで登場したのがクトゥルフであった。今ではニコ動やニャル子さんを起爆剤として大人気である。
 とはいえこうなるとCoCにあらずばTRPGにあらずとでもいえる状況も到来しているらしい。KPというのはCoCの特殊な概念であるのだが、すっかりGMというものは忘れ去られて、CoCしか知らない人間はTRPGといえば他のゲームでもKPというのだと思っているらしい。KPと称するのはCoCだけである。
 閑話休題。


 そもそも何故日本のRPG=ファンタジーは勇者なる少年が主人公であるものばかりなのか。勇者などというわけのわからぬ「職業」ではなくても、少年が主人公なのは何故か。
 それは売れ行きがいいからである。上掲のアンケートでも、RPGをやっているのは男性が圧倒的に多い。だからとりあえず少年主人公にしておけばだいたいのユーザーはそれで満足する。特にコンピュータベースの日本のRPG=ファンタジーならなおさらだ。キャラメイクなどに余計なリソースを割かなくて済むのだから。
 女性のある程度や、私のような特殊な男性はそれにあまり納得しないが、しかし少数にすぎないのだから、一蹴して済ませればよかったのだ。

 私などは実に特殊で、CardWirthのパーティ編成など見てもわかるように、私は女性としてファンタジーを遊びたいらしいのである。性別が選べるのなら、最新のスマホゲームに至るまでほぼ間違いなく女性を選択する。これは私の女性化願望の故だろう。まったくもって特殊事例であり、顧みられない。

 何故こうなったか。元々TRPGというホビーにしても、コンピュータというハードにしても、男の世界だったからである。ファンタジーの創生にはメアリー・シェリーなどとい女性もいたり、世界初のプログラマとされる人物が女性であったりもするが、どちらも男性社会の中で発達してきた。
 だが、女性の社会進出もあり、事態は変わった。いや、元々女性ユーザーは一定数存在した。MMORPGなども女性ユーザーは相当数いた。女性がプレイヤーの中核となっているゲームだって現行タイトルにはある。

 スマホの普及はこれに決定打を加えた。スマホゲームは、当初、男子学生やサラリーマンが通勤通学の暇つぶしにプレイするものと思われていた。だから多くのスマホゲームは男性主人公前提で作られているし、「萌え」をメインコンテンツとして準備された。
 だが実態は違った。スマホゲームのコアとなるユーザーは、特に金を落とす層は、暇を持て余した専業主婦と水商売のお姉さんであると明らかになってきた。いや、多数が女性を占めているか、具体的な数字はわからないが、相当数は明確に女性ユーザーであり、彼女らは可愛いものとして「萌え」を楽しんでいる。

 女性ユーザーと男性ユーザーの差異として、コンテンツが一方通行化することが挙げられる。つまり、女性ユーザーは男性向けコンテンツを楽しめるが、男性ユーザーは女性向けコンテンツを楽しめない。少年漫画を読む女性と少女漫画を読む男性の数はかなり異なる。男性はほぼほぼ少女漫画を読まない。男性はほとんどボーイズラブや乙女ゲームに手を付けない。だが女性は少年漫画も読むし、恋愛シミュレーションゲームもするし、なんならエロゲーだってする。そもそもエロゲーだってエロ漫画だって女性が絵を描いていることがかなりある。有名な女性エロゲー原画家やエロ漫画家はすぐにでも挙げられるだろう。

 最近は男性向けコンテンツでも女性ユーザーを意識したものも出てきた。主人公の男女を選択できるゲームも多くなってきた。「攻略対象」に少女だけではなく少年を加えたゲームもある。特に任天堂のような世界展開している企業は更なる配慮を求められる。即ちセクシャルマイノリティへの配慮である。同社のゲームで同性が恋人同士になれなかったり、また、明らかにレスビアンなキャラを薬を使って男性への愛に「矯正」させる場面などは国際的批判に晒された。
 こういった試みは当然、ポリティカル・コレクトネスの発達した海外の方が進んでいる。海外では同性が恋愛するのも当然である。
 一方で日本は特殊だろう。一部では同性愛がもてはやされる一方で敬遠されてもいる。ここでは細かく書くつもりはないが。

 しかしやはり日本のRPG=ファンタジーは男性前提で作られている。未だに男性主人公しか選べないゲームは多い。ガチャで出てくるのは美少女ばかりだ。問題がないのは、女性も女の子キャラの可愛さを楽しめるからである。逆に男性は男キャラがガチャから排出されても楽しめない。FGOなどは特殊な事例になるだろう。男の娘はまた別かもしれないが。

 ちなみに、個人的にこのことで役得を得られることもある。主人公が男女選べる場合、私は当然女性を選択するのだが、やはり根本的に、デフォルトとして、今の日本のゲームは男性がプレイする前提で作られている。
 だから、「女性主人公」の「相手」としても女の子ばかり出てくる。そう。百合である。この意味において日本のゲームは百合天国になるのである。
 といったところで、多くは大して描写がなされることもないのだが。
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ファンタジー世界のワレメ [ファンタジー世界考察]

 本屋に行くと、ラノベ系単行本が並んでいる棚がある。かつては新書サイズのエンターテイメント文藝が並んでいた。具体的には赤川次郎や西村京太郎、田中芳樹、それから架空戦記などが並んでいた。今その本棚に行くとラノベ系単行本が並んでいる。タイトルを見ると「異世界」「転生」ばかりでうんざりする。頭が痛くなってくる。気分が悪くなってくる。


 人間は小説というものを読むが、そこにはリアリズムとかリアリティというものが適度に介在する。もちろん伝統的には突飛なものも存在する。たとえばパラディンのアストルフォの月旅行などは書かれた当時にあっては突飛そのものだったのでは思えるが、とはいえその月世界も当時の作者や読者の想像しうるリアリティの範疇にとどまる。
 一部の人間は私のようなリアリズム気違いに苛立って排撃し非難しようとするが、彼らもリアリズムの端女にほかならない。その証拠が本屋にうんざりするほど並ぶ異世界転生ものである。


 さて。
 実は先日見たFate/Apocryphaの話をしたかった。それは瑣末なワンシーンに過ぎなかった。劇中で魔術士がその辺に駐車されていた車の窓ガラスを割って、車のドアを解錠してドアを開けるというだけのシーンであった。
 しかし私にとっては大きなリアリティの瑕疵であった。

 というのも、その窓ガラスの割れ方が普通の板ガラスの割れ方だったのである。車の窓ガラスは当然ながら強化ガラスであり、割ったら細かくひび割れて崩れるように落ちていく。音ももっと低い。これは自動車事故が起きた時に、ガラスの破片による怪我を防ぐためである。
 しかし劇中の窓ガラスの割れ方は普通の板ガラスの割れ方だった。普通のガラスのように破片が飛び散り、割れる音も甲高い。
 これで興ざめである。

 たとえば肘で窓ガラスを粉砕するのは構わない。普通の人間であれば肘で強化ガラスを粉砕するのはまず無理であり、映画でもドラマでもたいていはバールのようなものなどを使って割る。というより、実車の映画やドラマでは道具を使わないとガラスを割れないし、車の窓に普通のガラスが嵌っていることもない。いちいち演出のために車の窓ガラスを普通のガラスに差し替える手間があるならバールのようなものの一つや二つ調達するほうがよほど早い。
 ちょっと話がずれた。実のところ肘で粉砕するのは構わないのである。何故なら、魔術士であるのだから、魔術で肘を強化すればそれで済むし、そもそもあの世界の魔術士は基本肉弾戦も普通であるから強靭な肘を持っていても問題ないかもしれない。しかし問題はガラスである。
 まあ追及の手を緩めるのなら、強化ガラスの破壊音の音源がなかったのかもしれない。それにセル画で強化ガラスの破壊を再現するのが面倒くさかったのかもしれない。

 そもそも、あのアニメを見て窓ガラスのことなど気になった人間など何人いるだろうか。という話である。いや、ブラックラグーンだとかヨルムンガンドのような車の窓ガラスがよく割れそうな作品でどうだったのかと思いだそうと思っても出てこないのではあるが。

 これは一つの蹉跌に過ぎなかったのかもしれない。Fate/Apocryphaを素直に楽しめていればこれくらいの瑕疵は無視できたのではなかろうか?
 しかしFate/Apocryphaには幾らかの「前科」もあった。たとえば前もブログに書いたジークフリートやジャンヌ・ダルクの伝説中の窓ガラス。あるいはルーマニア国内で英字新聞を調達する手間(ルーマニア語の監修の手間を省いたように思わせる)。ナショナルな英雄にすぎないジャンヌ・ダルクを聖女と見做すこと。などなど。
 こういった一つ一つの瑕疵が小さな蹉跌となってこの作品の私の中での評価を非常に下げているように思える。

 いや、再度問うなら視聴者の中で幾人がこんなことを気にするのかということである。多くの視聴者は「スタイリッシュな」バトルでも楽しんでいたことであろう。こんなつまらない瑕疵など気にしない。だいたい私にしても、自分の知識の範疇でしかケチをつけられないのだ。


 前もららマジの「ノートゥング」の発音でケチをつけたが、実際のところ、そんなことを気にする人間などほとんどいないのである。
 だがそれも程度がある。ノートゥングの発音に比べれば、強化ガラスの破砕などはまだ幾らか一般的に馴染みがある。映画やドラマで車のガラスが割れるシーンはあるだろうし、なにより交通事故に合えば車の窓ガラスが割れる場面に遭遇する可能性はそれなりにあるのだ。


 Twitterなどを見ていると、たとえば大河ドラマで、お歯黒も引眉もしていないのを見るとリアリティがなくて興ざめする、という発言があった。
 これをどこまで適用できるであろうか?

 多くの視聴者はそんなものを気にしていない。それどころか、大河ドラマの登場人物たちが揃いも揃ってお歯黒引眉では、現代の視聴者は受け入れられないだろう。


 アストルフォの旅した月世界は、地上と変わらないものであったと記憶している。だいたい、狂えるオルランドでアポロ宇宙船の見た月世界など再現してもこの上なく仕方がない。


 実のところこういった「創作物のリアリティに走った瑕疵」というのは、どこまで追いかけても追いつかない。


 じゃあそれを諦められるか? それは無理である。

 たとえば、雨が降っているシーンならば、傘をさしているか、そうでなければ服なり外套なりが濡れるだろう。それを描写していない、たとえばアニメを見たら、視聴者はおかしく思うだろう。雨が降っているのになんでこの登場人物は濡れていないのだと。

 ところが、雨が降っているシーンというのは幾らか厄介だったりする。つまりファンタジー世界の雨である。ヨーロッパ人が雨の中傘をさすようになったのは割りと近代である。英国紳士などは雨に濡れても傘をささずにステッキがわりにするなどという真偽のわからぬ俗説もある。俗説はともかく、ヨーロッパ人の降雨対策は外套と帽子であった。
 だからファンタジー世界で平然と傘をさすわけにもいかないのだが、かといって降られたままの濡れ鼠というのもなにか「打ちひしがれた様子」を表すときにしか使われない。だからファンタジー世界では都合のいい時にしか雨は降らない。アイドルがうんこしないのと同じである。
 日本のファンタジーでは帽子と外套で雨をよけるわけにはいかないのである。まず髪型を見せびらかすために帽子をかぶせてはいけない、というか髪型がわからないとキャラの区別が面倒になる。それに外套だってデザインするのに手間がかかる。


 結局なにを言いたいのか自分でよくわからなくなってきたようにも思える。相変わらずの駄弁である。このブログにはそんなものしか存在しない。
 冒頭の異世界転生に苛立った話も接続できていない。つまりは、わざわざ異世界に転生させるのは主人公のリアリズムを読者に接続させるためである。読者は生まれながらの農奴のことなど理解できない。そもそも農奴など理解できないからそんなものはファンタジー世界に存在しない。せいぜいファンタジー世界に存在するのは「村人」である。もちろん中世ヨーロッパには存在しなかった「村長」も用意しなければならない。
 転生した現代人の感覚を通してなら「異世界」のリアリズムを担保できるという策略なのである。もちろんこれも誤謬の死体の上に築いた玉座である。ファンタジー世界の料理はまずく部屋は暗くベッドは堅い。それらはすべてごまかされる。アイドルはうんこしない。勇者もうんこしない。

 別にそれらを一概に否定もできない。私だって大河ドラマの登場人物がみんなお歯黒引眉だったら戸惑うだろうと思う。

 だがそれでもFate/Apocryphaの窓ガラスは蹉跌になった。


 余談だが、Fateシリーズでもう一つ気になることがある。というかこれはだいぶ前にも書いたことであるのだが。
 というのは劇中で「弓兵」「槍兵」を音読して「きゅうへい」「そうへい」と呼んでいるのである。「国語」の授業的には正しかろう。それに音読みする読み方も誤ってはいない。
 しかし個人的にそこは「ゆみへい」「やりへい」と湯桶読みすべきものに思える。そのほうが耳慣れている。だいたい、「長槍兵」とか「長弓兵」とかまで「ちょうそうへい」「ちょうきゅうへい」とか呼ばれてはかなわない。

 こんなことだって気にしている人は実に少数なのだろうか。
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ファンタジー世界のふわふわのベッド [ファンタジー世界考察]

 いやまあそんなものはなかったといういつもの話であるが。


 だいたい現代人が考えるベッドふわふわとかいうのはコイルばねを仕込んだか分厚いウレタンを詰め込んだマットレスのおかげである。
 中世ヨーロッパにコイルばねもウレタンもありはしない。
 ばねについては一文書くと面白そうだが長くなるので今日はやめておく。

 布団には綿が詰まっていることは、中世ヨーロッパではありえない。前も書いたように綿はヨーロッパに到達していなかった。羽毛、いわゆるダウンはあっただろうから、王侯貴族の布団にはそんなものがたっぷり詰め込まれていたかもしれない。

 では中世ヨーロッパのベッドには何が敷かれていたか。

 藁である。

 中世ヨーロッパの住民は藁が好きだった……ということはなかっただろうが。利用可能な「柔らかなもの」が藁しかなかった。

 ベッドには当然藁である。王侯貴族のベッドであっても、マットレスの代わりに頑張って藁を詰めて柔らかくしようとした。庶民のベッドなどは悲しい状態であったことは想像がつくというものだ。ペタペタである。ファンタジーの冒険者などは宿のベッドを恋しがったりするが、実態はそんなにいいものではなかった。単に地べたで野営するのに比べたらよかったという程度である。いや、そもそも人間の主観とはそういうものである。生まれた時から農奴であれば農奴としての貧しい暮らしにも幸せを若干は見いだせるだろう。日本語版ウィキペディアの農奴の項目には農奴は泣きながらまずい飯を食っていたなどと書いてあるが、そんな悲惨しかないような生活を人間は送れない。農奴であっても少しは楽しみもあったであろう。少しは、であるが。もっともその出典の日本人が書いた本は何か思想のバイアスがかかっているようであるが。閑話休題。
 ともかく、ファンタジー世界の居住性というものは、そこで生まれついたものと、現代人の主観とでは大幅に異なる。その辺の男子高校生がファンタジー世界に異世界転生したところで苦痛しかなかろう。とはいっても一ヶ月も暮せばまずい飯にも寒い家にも慣れるだろうし、若ければそれくらいの適応性はあるだろう。ただ、実際にそんな描写が異世界転生ものとやらに存在するのかは知らない。

 話は戻るが、中世ヨーロッパには絨毯というものもなかったようである。農奴だとかいった貧民の家に絨毯がなかったのはもちろんだが、王侯貴族の居城であっても絨毯はなかった。
 ではなにが敷いてあったかといえば当然藁である。絨毯の代わりに藁を敷いていた。適当に汚くなったりしたら捨てて新しい藁を敷いた。

 だいたい、貧民は下手したら家が竪穴式住居である。家に床すら存在しない。

 ニーダーザクセンの冬は地面に指を挿れても凍って堅くて入らないそうである。

 ナンパな男子高校生なんぞが異世界転生したところで凍死しかねない。


 中世ヨーロッパっぽいアイテムとしてタペストリーというものがある。壁にかける絵柄のある織物である。最近では二次元の萌えキャラがプリントされて壁を飾っているが。あれはイスラーム世界から移入された絨毯を、いざヨーロッパ世界に持ち込んだはいいが、土足で踏むのがもったいないから壁にかけてみたものである。床には藁を敷いて我慢した。石の壁であるから、布を垂らしておくだけでなかなかに断熱保温効果があったのである。フランス王国などでは流行して、王はゴブランという職人にこれを作らせた。なのでタペストリーはゴブラン織とも呼ばれている。
 しかし壁にかけられた分厚い布は鼠の格好のすみかとなり、鼠を媒介とした黒死病がヨーロッパに蔓延する一因ともなった。


 別にファンタジー世界に絨毯があっても不都合はなかろうし、中世も中盤になれば竪穴式住居も姿を消しはじめた。
 だから別に中世ヨーロッパ世界の居住性を完全にファンタジー世界にあてはめる必要はないのである。

 だが、だからといってそれを無視することもできない。
 だいたい、ファンタジー世界ならご都合主義で万能穀物とか万能繊維とか捏造すればいいとか書いたが、そんなものはそれなりの裏付けとなる設定や描写をしなければリアリティも得られず浮いただけの存在となりかねない。
 最近のファンタジー世界は安くなったのでそれでも通用するのかもしれないが。
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ファンタジー世界の嗜好品 [ファンタジー世界考察]

 前にファンタジー世界の飲み物について三回くらい書いている。そしてグーグルで「ファンタジー世界の飲み物」と検索するとこのブログの記事が三つヒットする。ということで嗜好性飲料についてまた書こうと思ったが、ついでだから嗜好品についてとりあげる。


 嗜好品という単語は森鴎外が作った言葉である。中国語に嗜好という言葉はあるが嗜好品という言葉はない。英語にも嗜好品という単語はなくShikohinと呼ばれることもある。

 嗜好品とは人間が純粋に楽しみのためにもちいる消費物のことである。栄養を補給するために摂取するわけではない。代表的なものは茶、コーヒー、煙草などである。
 そして中世ヨーロッパにはどれ一つなかった。


 中世ヨーロッパに嗜好性飲料と呼べるものはなかった。紅茶もコーヒーもココアもなかった。煙草もなかった。ハーブティーくらいはあったかもしれない。
 そもそも当時は普段から酒を飲んでいた。飲み物といえば酒であった。エールにせよワインにせよ普通に朝から飲んでいた。ヨーロッパは水が飲めたものではなかったので仕方がないのである。

 茶は支那大陸で飲用とされたものである。これについては以前も書いた。だから紅茶がヨーロッパで日常的に飲まれるようになったのは中華帝国がヨーロッパの貿易圏に接続されてからである。インド亜大陸で紅茶は大体的に生産されるようになった。ちなみにアッサムの紅茶は独特の味わいで、特にミルクティーに最適だが、アッサムの茶はチャノキではなく、チャノキの亜種らしい。
 コーヒーも中世になってからアラビアで飲まれるようになったものである。ヨーロッパ人がコーヒーを飲み始めたのは十七世紀の第二次ヴィーン包囲以降である。
 ちなみに砂糖の需要がヨーロッパで一気に膨れ上がったのは、庶民に至るまでコーヒーを飲むようになったからである。紅茶はインド植民地を有する大英帝国が主な消費地であったが。日本人は緑茶の発想なのか紅茶にもコーヒーにも砂糖を入れない人は多いが、ヨーロッパではほいほい入れる。ちなみに台湾やら東南アジアでも入れる。多分中国大陸でも入れる。日本だけ特殊と思われる。
 ココアが今の形になったのも最近の話である。そもそも、ココアは新大陸の原産でありヨーロッパには元来存在しない。ミルクや砂糖を入れて飲みやすく、あるいは固形のチョコレートにして食べやすくしたのは近代ヨーロッパの発明である。前も書いたように元来のアステカのココアは皇帝の滋養強壮剤であるのだから、日本でおっさんがマカビンビンとかスッポンパワーとかを飲むのと同じ感覚である。
 煙草も、ココアと同じく新大陸の産物である。だからクリストーバル・コロンの航海以前はヨーロッパに存在しなかった。そして驚くべきは煙草の拡散速度である。一度ヨーロッパに移入した煙草は大航海時代の航路を通じて瞬く間に世界中に広まった。その証拠に、煙草は英語でもポルトガル語でも日本語でも「タバコ」と呼ぶ。各国で単語が割り当てられるより早く世界に広まった。同様の速度で広がったのがこれもまた新大陸の特有疫病であった梅毒である。クリストーバル・コロンの航海から百年経たずして日本の戦国武将が梅毒で死ぬようになった。ちなみに梅毒は元々牛の疫病であるから、誰か物好きが牛とセックスしたのであろうなどと澁澤龍彦は書いている。もっともそもそも梅毒が新大陸特有のものだったのかどうかもよくわかっていない。この病気はあまりに早く世界中に広まりすぎた。

 さて、話がずれた。

 煙草というと、日本では紙巻き煙草ばかりで、他に煙管が伝統的だが、それ以外はせいぜいパイプと葉巻くらいしか人口に膾炙していない。しかしその他にも嗅ぎ煙草や噛み煙草というものがある。嗅ぎ煙草は粉末を鼻から吸うものであり、噛み煙草はガム状の煙草を噛む。合衆国の野球選手がよくガムのようなものをくっちゃくっちゃと噛んでは唾を吐いているが、あれは噛み煙草である。噛み煙草はニコチンを有しているから噛んだ唾液も噛み煙草も飲み込んだら死ぬ。彼らが唾をペッペッペッと吐くのは汚らしいわけではない。そうしないと死ぬのである。お陰で彼らは舌癌の発症割合が高い。
 イスラーム世界では水タバコ、シーシャが普及している。これは水の入ったガラス瓶に煙草の煙を通すものである。持ち歩きが不便だからシーシャバーとかシーシャ窟とか呼ばれるところで集まってシーシャを嗜む。酒の飲めないムスリムにとってシーシャバーはヨーロッパのパブみたいなものであった。つまり大人たちの社交場であった。いや、パブには子供も来るが。

 そう、パブというのも、色々一概にいえるものでもないが、飲酒が割りと子供の頃から容認されていたヨーロッパ世界では大人の世界というわけでもなく、子供も来る場所で、社交場である。いや、それをいうなら「子供」などという概念そのものが、公的教育の普及しはじめた19世紀末になって新しくできたものである。ヨーロッパだけではなく全世界的に子供などという概念は近代まで存在しなかった。子供でも農場や鉱山で働き、第二次性徴を迎えれば結婚も出産も売春もするようになったのである。敢えていうなら子供と大人の差は第二次性徴だけである。

 話を本筋に戻そう。

 煙草のような嗜好品は、世界には他にもある。たとえばコカの葉などは、今では精製されてコカインとなるが、アンデス世界では煙草を嗜むようにコカの葉を噛んで、労働者などは疲れを癒やしていた。CardWirthにはコカの葉というアイテムもあるが。コカレロなる酒もあり、最近日本でも六本木あたりに行くと出てくるらしい。
 ブラジルにはガラナという植物由来の嗜好飲料がある。コーラも元来はコーラの実から抽出した液体である。コカ・コーラのコカとはコカの葉、コカインのコカであった。
 大麻も土地によっては一般的ですらある。合衆国の医療大麻などというレベルではない。ねこぢるの旅行記を信じるならば、インドでは大麻がガンジャラッシーなどとして普通に出てくるらしい。
 他にも、アジアやアフリカの熱帯にかけて、カヴァ、ビンロウ、キンマ、グトゥカー、カートなどといった様々な嗜好品がある。これらは噛み煙草のように噛んだり、抽出した液体を飲んだりして楽しむのだが、ただ向精神作用があるものもあり、危険な薬物と認識されているものもある。


 ファンタジー世界にこういった嗜好品は存在するだろうか。ファンタジー世界に移入した場合、政治経済、社会的な枠組みに影響がないのなら、存在してもいい。実際、ファンタジー世界でも煙草はポピュラーで、特にドワーフなどは煙草を好むなどとする設定を見かける。ドワーフのような肉体労働をしているのなら、噛み煙草やその他よくわからぬものを噛みながら鉱山労働に従事するのなどは絵になるだろう。エルフのシャーマンやドルイドなども自然と交信するのに薬物的なものを使ってトランス状態になるかもしれない。
 冒険者のような過酷な仕事であれば同様であり、特に煙草のような、どこか(もなにもそのものではあるが)不健康な嗜好品は似合うようにも思える。

 とはいえ、大英帝国が茶葉と生糸(とついでに鴉片)のために戦争を起こし植民地を支配したのに見られるように、こういった嗜好品であっても政治経済に影響を与えないなどということはないのである。まあ、啓蒙時代以降の、特に産業革命進行期のヨーロッパは中世ヨーロッパなどと比べれば爆発的な人口の伸びを示しているから、そこまで心配すべきではないのかもしれないが、それにしてもヴァスコ・ダ・ガマやクリストーバル・コロンの航海の動機が香辛料という嗜好性の高いものであった以上、無視もできないだろう。
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